模索続く終末期医療の現場 刑事責任…消えぬ不安

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091210-00000038-san-soci

川崎協同病院の事件後も、平成18年に富山県射水市民病院で末期患者7人が人工呼吸器を外され死亡していたことが明るみに出るなど、延命治療の中止をめぐる問題は相次いでいる。
治療中止をめぐる司法判断では、医師が末期がん患者に塩化カリウム製剤などを投与した東海大病院事件(3年)についての横浜地裁判決がある。判決は、治療中止が認められる要件として、(1)死が避けられない末期状態(2)患者の意思か家族による患者の意思の推定(3)「自然の死」を迎えさせる目的の決定−を挙げたが、1審で確定しており、司法判断として確立しているとはいえない。
川崎協同病院事件の2審東京高裁判決は「根本的な解決には法律かガイドラインの策定が必要。国を挙げて議論すべきもので、司法が解決を図るような問題ではない」と指摘していた。

町村ブログでも取り上げられていましたが、

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2009/12/arret-0a45.html

最高裁としても、上記の記事にある東京高裁のような考えに立ち基準を明示することは避けたのかもしれません。
ただ、決定の中で、

しかしながら,上記の事実経過によれば,被害者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後,本件抜管時までに,同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず,発症からいまだ2週間の時点でもあり,その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして,被害者は,本件時,こん睡状態にあったものであるところ,本件気管内チューブの抜管は,被害者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが,その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく,上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば,上記抜管行為は,法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。

とされているところから見ると、最高裁が、「法律上許容される治療中止」というものが存在することを肯定していることは明らかで、その要件としては、

1 回復可能性や余命について精査した上で、回復可能性がなく余命がわずかであると認められること
2 そのような状態を理解した上での被害者(推定的承諾を含め)あるいは家族からの依頼に基づくものであること

といったことを想定している可能性が高く、上記の記事にもある東海大病院事件の横浜地裁判決が示した基準あたりを、法律上許容される治療中止として想定している可能性が高いと思われます。
人の死という重大な事柄に関わるものだけに、どのような形で基準を明確にするかは悩ましいところですが、このまま放置もできず、東海大病院事件における基準をベースに立法化する方向で、当面、努力してみる必要があるのではないかと感じます。

追記1(平成22年4月5日):

判例時報2066号159頁

治療中止の適法化の根拠について、コメントで、

治療中止行為が患者の生命を短縮させるという事柄の性質上、患者の意思を抜きにしてこれを説明することは困難であることから、患者の自己決定権をその根拠の一つとし、他方、刑法は承諾殺人罪等を犯罪として規定しているため、患者の意思だけでこれを正当化することも困難であることから、治療を止めて死期を早める措置を採るという事柄の性質上、医師の治療義務の消失、すなわち治療行為の限界という点をもう一つの根拠として、その正当化を論じる流れにあると理解できよう。

としていて、この問題を考える上で参考になると思いました。治療行為の限界、ということを、いかなる基準で判断して行くかについて、立法ないし判例による解決が、やはり必要でしょう。

追記2(平成23年5月2日)

「治療行為の中止と合法要件」(土本武司 判例評論627号・判例時報2105号165頁以下)