日弁連新会長 改革後退は許されない

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008021302087055.html

日本弁護士連合会の新会長を決める選挙では、「安定した生活をしたい」という多くの弁護士の本音が噴出したようだ。

過剰論は、要するに都会で恵まれた生活ができる仕事が減った、ということではないだろうか。
司法書士などの試験と同じく司法試験も法曹資格を得る試験にすぎず“生活保障試験”なぞではない。

「弁護士資格を得たら、必ず弁護士として暮らしていけるよう参入規制すべきだ」とも聞こえる増員反対論に共感する一般国民は少ないだろう。

弁護士をやるとすぐにわかりますが、「都会で恵まれた生活ができる仕事」というのは、全体の中ではほんのごく一部であり、大多数の弁護士は、細かい仕事を、面倒をいとわず、こつこつとやっているものです。そういう地味な生活をして、事務所を維持し、自分のささやかな生活を維持したい、安定させたい、という、ささやかな希望を抱いている弁護士、というのが、日本の弁護士の大多数を占めているのが実態です。贅沢な生活をし、高級車を乗り回し、おもしろおかしく暮らす弁護士も、いないわけではありませんが、数としては微々たるものです。東京新聞は、大多数の弁護士の、ごくあたりまえな、一般国民と変わらない、ささやかな希望を、いけない、間違っていると言いたいのでしょうか。
私は、法曹増員には反対していませんし、国民が必要と考え、真に必要であれば、毎年3000人でも、5000人でも、法曹を輩出させれば良いと思っています。
しかし、法曹資格を得た人すべてが法曹になる必要はありませんが、国民が、日本社会が、どれほどの法曹を必要としているか、ということをきちんと検証もせずに、法曹資格者をむやみやたらと世に出す、というのは、それこそ無責任、無駄というものでしょう。法曹有資格者が世に出るまでだけでも、その教育に多大な公費がかかる、ということを見逃すべきではありませんし、資格はあるものの法曹としては仕事につけなかった、という人が社会でどのように働いて行くか、いうことを考えておく必要もあるでしょう。
現在、きちんと再検証しなければならないのは、今の、今後の日本で、法曹が、社会のどこでどのように働き、そのために、どれだけの法曹を世に出して行くべきか、ということであり、そこが、きちんと検証されていなかったのではないか、このままでは、需要をはるかに上回る供給が延々と続いて、困窮する弁護士が続出し、質が低下して不祥事が続々と発生し、また、現行の様々な公益活動も維持できなくなるのではないか、ということが正に問題になっていますが、そういった現実に発生している問題を直視せず、弁護士を悪者にし、勝手なレッテルを貼って悦に入っているとしか思えない上記の社説は、やはり、かなり問題がある思います。
例えば、確かに、地方では弁護士がいない、あるいは極端に少ない地域が少なくありませんが、そういった地域で弁護士が開業し、事務員を雇い入れて事務所を維持し、自分も生活して行けるか、数年だけでなく10年単位ではどうか、というと、はたしてどうか、というのが現状ではないかと思います。昨年、福岡で開催された日弁連のシンポジウムでも感じましたが、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070623#1182528468

現在の過疎地における事務所経営は、個人の債務整理に大きく依存している面があり、今後、グレーゾーン金利による過払金バブルが沈静化すれば、どこに収益源を見出して行くか、ということが、かなり深刻な問題になる可能性が高いでしょう。「困っている人が多い」ということと、そういった人々を助けつつ現実問題として収益源を見つけ贅沢せずとも事務所や生活を維持する、というのは、別問題です。これは、購読料が支払えないが社会のことが知りたいので東京新聞が読みたい、という人がいた場合に、「新聞を読ませてあげたい、読んでもらいたい」という希望と、「無料で新聞をあげていたら経営が成り立たなくなる」という現実が、両立困難であるのと同じことです。
そういった問題に目を向けることがないまま、困っている人がいるのだからそういうところにどんどん出て行け、出て行かないのは安定した生活がしたいからだろう、それは許されない、と迫るのは、航空戦力による援護もないまま無謀にも戦艦大和を沖縄特攻に差し向け多大な犠牲を出した連合艦隊司令部と変わりません。
マスコミ関係者も、弁護士のエゴ(この種の議論にそういう面がつきまといがちであることは私も否定しません)には厳しい目を向けつつも、今、真の意味で何が問題になっているのか、何をすべきであり何をすべきでないのか、といったことを、冷静に整理しつつ記事や社説を書くべきだと思います。