兵士の証言、散った青年の潔さ教訓に

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/522999/

原田 昭和17年6月5日朝、上空哨(しょう)戒(かい)から着艦した時、敵の雷撃機が来襲してきた。すぐに迎撃し、次々撃ち落としました。激しい戦いでしたが、雷撃機をほぼ全滅させたのです。
ところが、急降下爆撃機のドーントレスが背後に迫っていることに気づかなかった。それで甚大な被害を受けてしまった。こっちは目前の敵に必死でしょう。全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった。全ての狂いはここから始まっている。
前田 索(さく)敵(てき)の怠慢以外の何物でもない。巡洋艦から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機が発艦から1時間後、ドーントレスに遭遇して撃ち合いをしていたのです。当然、先には敵空母がいる。なのに、大尉はこれを報告せず、雲の上を飛んで、空母も発見しなかった。致命的なミスでした。ところが、責任は利根から発艦した索敵機のせいにされた。
発艦が遅れた索敵機は敵空母を発見してそれを報告したが、これが「発見が遅れた」と敗北の責任を背負わされてしまったのです。こちらは、海兵出ではなく、予科練の甲飛二期の機長だったからでしょう。終戦後、この機長の墓参りに行った時、彼の墓石に刻まれた名前が削り取られていました。何とも哀れで、一方、本当のミスをした大尉は不問に付され、戦後も自衛隊で出世を遂げたのです。

記事にある、「鹿児島湾で超低空から雷撃する訓練」は、

でも登場する、印象的なシーンですね。
今となっては、真珠湾作戦やミッドウェー海戦等に参加した旧軍関係者の体験談を聞くのはかなり困難になっていて、貴重なインタビューだな、と思いながら読んだのですが、原田氏や前田氏が指摘する、問題は利根策敵機による策敵の遅れではなく、その前の策敵不十分にあった、という指摘や、3空母炎上の原因について、「全体を見て艦から統率して指示を出すシステムがなかった」という指摘は。従来の戦記では、なかなかそこまで踏み込んでは言われていなかった点で、その戦場に身を置いた者ならではのもので参考になると思いました。
少し前に、

ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実

ミッドウェー海戦「運命の5分」の真実

を買って、ぼちぼちと拾い読みしていたのですが、上記の記事を読み、きっちりと精読する気が沸々と起きてきました。
今年は、真珠湾作戦から70年目で、作戦決行日の12月8日までに、徐々に、いろいろな記事が出てくるものと思われ、読んで勉強するのが楽しみです。
今まで、真珠湾作戦について読んだ本で、特におもしろいと思ったのは、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070623#1182596627

でコメントした

真珠湾<奇襲>論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交 (講談社選書メチエ)

真珠湾<奇襲>論争 陰謀説・通告遅延・開戦外交 (講談社選書メチエ)

でした。真珠湾作戦70年を機に再読してみたいと思っています。