3月30日の銃撃事件時効を前に、国松孝次元警察庁長官「入念な下見での犯行ではない」

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn/20100326/20100326-00000264-fnn-soci.html

1995年3月30日、自宅前で銃撃された国松元長官はFNNの取材に、「後ろからドーンと音がして、衝撃で体が前に倒れた」と当時の状況を語ったうえで、「入念な下見をしたのであれば、犯人はあの位置にはいなかったはずだ」と話した。
FNNの取材では、署轄の南千住署の警備責任者は、ほぼ1日おきに、犯人が銃撃した場所の近くに立って長官を見送っていたが、犯行当日は署の行事で、警備に行けなかった。
警視庁の捜査本部もこうした状況から、入念な下見はなく、計画から短期間で実行されたとみている。

元々の警視庁公安部の見立てでは、オウム真理教による組織的犯行で、そうであるだけに入念な下見をした上でのことという構図を描いていたはずであり、元長官の上記のような証言は、そういった見立てを間接的に否定する側面もあるのではないかという印象を受けます。

【あれから、15年 警察庁長官銃撃事件】(上)迷走の初動捜査
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100326-00000060-san-soci

を読んでいると、初動の段階から皆で浮き足立ってしまっていて、こういう警察で日本の治安は大丈夫なのかと心配になってしまいます。警察庁長官が狙撃された事件も解決できずに迷宮入りにさせてしまうようでは、その力量に大きな疑問符がつかざるを得ないでしょう。警察捜査というものには期待できないという国民の印象が、これを機にますます大きくなる可能性もありそうです。では検察捜査に期待できるかというと、白を黒にする「ストーリー捜査」の弊害がますます大きくなっているという印象が広がっていて、とても期待できるという状況にもありません。捜査というものが、このように不信、あきらめの中でどんどん落ちて行く状況に、これでよいのかと危惧を感じるものがあります。