平成7年4月1日に、名古屋地検で、東京地検への異動を命じる辞令を交付され、あわただしく引越をして、東京地検に着任したのは、4月6日か7日ころであったと記憶している。当時、東京地検公安部には副部長が2名いて、そのうちの1人がオウム関連事件を見ていた。
東京地検は、オウム真理教に関する捜査で騒然とした状態になっていて、「戦時」と言っても過言ではない状況にあった。当時の捜査体制は、警視庁が、主に刑事部と公安部の2系統で捜査を行っていた関係で、東京地検も、刑事部と公安部の2系統で捜査を行い、それぞれ、警視庁の各部に対応する形になっていた。刑事部の主眼は地下鉄サリン事件であり、公安部の主眼は国松警察庁長官銃撃事件、ということであった。
私が着任した際、オウム真理教の幹部が絡む、長官銃撃事件に関係するのではないかと思われる事件が、東京都内で発覚したばかりという状況で、副部長から、すぐに都内の警察へ行くように指示されたことが思い出される。その後、4月中は、その事件の関係者の取調べに、日夜、忙殺されていた。
当時、オウム真理教の関係者が、捜査機関関係者に対するテロを企てているという情報があり、私が住んでいた公務員宿舎も警護対象になっていて、時々、パトカーが巡回してくれていたようであったが、私は、土日も祝日もなく、検察庁へ出っぱなしで働いていて、帰宅は深夜の1時、2時という状況であった。その後、数か月たって、捜査も進捗しオウム真理教によるテロの恐れもなくなってきた頃、東京地検の某検事(オウム真理教の事件に少しだけ関係していた)の宿舎窓ガラスに穴があいていた、ということで、その検事が、銃撃されたのではないかと騒ぎ出し、東京地検公安部の某検事が、警視庁の公安機動捜査隊(略して「公機捜」)と一緒に現場に行ったところ、その後、戻ってきて、「公機捜が、窓ガラスの穴を見て、あ、これBB弾、と言って、すぐに現場から引き上げてしまった。」と大笑いしていたことが思い出される。その辺の子供が、BB弾が発射できるモデルガンで遊んでいて誤って撃ってしまったものと思われたが、当時は、それだけ関係者が怯えて生活していた面があったのは事実である。
(続く)