「検察庁は公益の代表者の地位を捨てるのか?」

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2008/02/news_084c.html

検察はもちろん訴追官であるから、訴追した被告人について有罪判決を得ることが目的なのは不思議ではない。しかし、検察官は公益の代表者であり、無辜を罰してはならないということも追求するべき存在なのである。裁判所のような中立性はないが、実体的真実に適った裁判を追求すべきことは当然で、真実罪を犯した者に刑罰を与えると同時に、真実は罪を犯していない者に刑罰を与えないようにすることも、検察の本来的任務である。

これは、刑事訴訟法上、「検察官の客観義務」ということで論じられることがある問題ですね。日本の検察官の性質、性格をどう見るか、という、深遠な学術上の問題はともかく、町村教授が指摘されるような法制度上も、そして、それ以上に、検察庁、検察官の意識、プライドの問題として、検察官は公益の代表者であり被疑者、被告人の有利、不利を問わず、実体的真実を解明し「やっている」場合だけでなく、「やっていない」場合も、やっていないことを明らかにするのが責務である、ということで、「従来は」やってきたはずです。従来は。
かつて、関西検察のエースであり、今や塀の内側に完全に落ちてしまった田中森一氏にとっても仰ぎ見る存在であったはずの別所・元大阪高検検事長の著書

でも、そのことが強調され、「やっていない」ことを解明した体験談が紹介されていたことを思い出します。
余談ですが、以前、別所氏が神戸地検検事正時代に、その下で働いていた検事の体験談を聞いたことがありましたが、別所検事正は、一般的にどこの検察庁でも気にされがちが未済事件について、全然気にしておらず、「捜査に時間がかかるのは当然である。」と、常日頃言っていた、ということで、いかにも別所氏らしい話であると感じ入ったことがありました。
私が検事になった平成の初め頃には、まだ、そういった良き伝統が残っていたような印象ですが、徐々に、そういった良き伝統は失われ、今や、日本の検察庁は、刑事事件を一種のゲーム視し、起訴できれば、有罪になれば「勝ち」であり、勝つためにはあらゆる手段を講じ、負けにつながることはしない、という、国民にとっては何とも厄介な存在になりつつある、あるいは、既になってしまっているのではないか、という強い懸念を持たざるを得ません。一旦、そういった存在になってしまえば、民主的基盤を持たない、ピラミッド型の閉鎖的な官僚組織であるだけに、捜査、公判の暴走を止めることが困難になり、一旦、暴走し始めれば、富山の冤罪事件のように真犯人が現れたり、鹿児島の選挙違反事件のように裁判所により事件の空中楼閣性が厳しく指摘され無罪判決が出たりしない限り、誰にも止められず、そういった見るも無残な結果に終わっても、誰も責任を取らず、鳩山発言のような馬鹿げた発言すら平然と出てくる、ということになってしまいます。
町村教授の指摘は、日本の刑事司法の中核を担うべき検察庁が、そういった恐るべき存在になりつつある、あるいは、既になってしまっていることを指摘しているものと言え、今後、このような危険な存在をこのまま放置しておくべきではない、大改革が必要である、といった議論につながる可能性も秘めているように思います。

追記:

先輩にもまれ経験積む
http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000160709080001

別所氏のことを検索していたところ、内尾検事(平成7年に東京地検特捜部へ応援で派遣されていた際にお世話になったことがあります)の体験談が出ていて、そこで、別所氏(当時、神戸地検検事正)のことが、

毎日遅くまで残って、事件の記録をすみずみまで全部読んで決裁をする方で、私たちは検事正の秘書から「決裁が下りました」と連絡があるまで帰宅できませんでした。それに、夜でも呼び出されて鋭い指摘を受けることがありました。

と回想されています。
内尾検事の回想は、数回にわたり連載されていて、一通り読みましたが、著名事件の捜査経過も紹介されていて、なかなか貴重な内容と思います。
前にも本ブログでコメントしましたが、これほどの別所氏でも、甲山事件では失敗していて、捜査、公判の難しさということを痛感します。