東電旧経営陣に無罪判決 刑事司法の限界示す

東電旧経営陣に無罪判決 刑事司法の限界示す(河北新報) - Yahoo!ニュース

刑罰の適否を慎重に検討する裁判所は「運転停止を義務付ける程度」の高い信頼性があったかどうかを吟味。専門家らの間に疑義が生じていたことを重視し、信頼性を否定した。不起訴とした東京地検と同様の判断で、市民と法律家との間で地震予測に対する捉え方の違いが際立った。

刑事裁判は被告個人の責任を厳格に審理し、多くの部署が関わる大企業ほど立証が困難になる。判決では東電が国の規制に従っていた点も考慮された。民事訴訟では東電の過失を認める判断が続いており、過失は特定個人ではなく「組織全体」にあったと見ることもできる。

 刑事の過失の捉え方には、「直近過失論」と「段階的過失論」があり、実務では直近過失論が採られています。

自動車事故で言うと、速度超過→前方不注視→ハンドル操作の誤りで事故が起きた場合に、事故と直接的な因果関係のあるハンドル操作の誤りのみを過失とするのが直近過失論、一連の過失を全体として捉えるのが段階的過失論と言えるでしょう。

ただ、直近過失論でも、直近「唯一」過失論と、結果に因果関係のある、結果に近い複数の過失も許容する考え方があって、上の例で言うと、「前方不注視中に、その影響もあり慌ててハンドル操作を誤った」という関係にあれば、前方不注視、ハンドル操作の誤りを過失と捉えるのが後者です。

そういった観点で見た場合、本件で、「運転停止を義務付ける程度」にまで高度な予見可能性を求めさせた、過失の捉え方はどうだったのかは検証すべきではないかと思われますし、より現実的に、運転停止前の、例えば全電源喪失を防止するような措置を問題とするような過失の捉え方ができなかったのか、そこは疑問を感じるものがあります。

単なる危惧感程度では、予見義務、結果回避義務を追わせるのが相当ではないとしても、様々な情報が積み重ねられ、特に原子力発電所のような高度な安全性が求められる施設について、それなりに具体性を持った予見義務、結果回避義務を負わせることが相当であるというレベルは、今回の判決が設定したレベルよりも、もっと下にあっても良いのではないか、あまりにもハードルを上げすぎては実態に即さず、刑事責任の在り方としても妥当なものではないのではないかということも、改めて考えてみる必要があるように思われます。

そういったハードルをあまりにも低く設定し過ぎれば、人の行動の自由を成約しすぎますが、さりとて、特に原子力発電所のような、それ自体が大きな危険性を持つ施設について、ハードルをあまりにも高く設定し過ぎれば、多数の人々の安全が危険にさらされてしまい、現にさらされたという厳しい現実が発生しています。

先日、

yjochi.hatenadiary.com

で述べた問題状況の中、裁判所が「踏み込まなかった」、そこが今後、上訴審でどのように判断されていくかが注目されると思います。