死刑執行、氏名を初公表 法務省

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007120702070479.html

裁判員制度が適用されるのは、殺人や強盗殺人など重大事件が大半を占めるとみられる。裁判員は裁判官とともに被告人が有罪の場合、死刑か無期懲役かと量刑を判断しなければならない場面も出てくる。
このため、究極の判断を迫られる国民に対して、死刑の実態を知らせないのは、司法の公正性を維持するためにも支障が出てくるとの判断が働いたようだ。

死刑宣告に関わった裁判員が、何年か後、あるいは十何年か後、もしかしたら数十年後に、死刑判決を受けた者に対する執行の事実を知ったら、どのような気持ちがするだろうか、と考えました。執行前の段階で、自分が死刑判決に関わり判決が確定した者が、いずれは刑を執行され、この世からいなくなってしまう、死刑執行に恐れおののきながら生きている、と思うと、平常心を保てない人も出るのではないか、という気がします。
私の場合は、法曹三者の中で検事としてスタートし、専ら刑事事件を取り扱うことになった時点で、将来、自分が死刑になるような被疑者、被告人と関わることになることは覚悟し、死刑執行に立ち会う可能性も当然認識し、「その時」が来ることも覚悟しつつ職務にあたっていました。その後、弁護士になり、直接的にそのような関わり方をすることはなくなりましたが、その種の覚悟、気構え、といったことは、今でも変わらず持っています。
そういう立場に身を置く者として、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070914#1189728127

でも述べたように、生前に真の意味での幸福、心の平安、といったことはつかめないだろうし、死後も、生前の罪業を背負うだけ背負って血の池に沈み針の山を登り業火に焼かれて苦しみ続けるのだろう、などと、ふと思うこともあって、もし、自分が死刑判決に関わるようなことがあれば、我が罪は常に我が前にあり、といった、一種の諦観とともに重い荷を背負って生きて行く覚悟はできています。しかし、そのような辛い立場に、たまたま裁判員になった人を追い込むべきではないのではないか、と思いますし、そういうことを一般人に強いてしまう裁判員制度は、やはり残酷な制度であると思わずにはいられません。
以前にも本ブログでコメントしたことがありますが、裁判員に対する、精神面でのケア、といったことにも真剣に取り組んで行かないと、悲惨なことが次々とおきかねないでしょう。