「『はい』以外言うな」 富山の冤罪男性に取調官

http://www.asahi.com/national/update/0304/TKY200703040205.html

男性によると、任意の取り調べの際、取調官から「家族が『お前に違いない、どうにでもしてくれ』と言っている」などと何度も迫られた。「犯行時間帯には電話をかけていた」と訴えても、取調官は「相手は電話を受けていないと言っている」と認めず、「家族にも信用されていないし何を言ってももうだめだ」という心境になったという。
逮捕後、思い直して、検察官と裁判官に対し一度は否認した。その後、県警の取調官から「なんでそんなこと言うんだ、バカヤロー」と怒鳴られた。翌日、当番弁護士にも否認した。すると、取調官から白紙の紙を渡され、「今後言ったことをひっくり返すことは一切いたしません」などと書かされ署名、指印させられた。「『はい』か『うん』以外は言うな」と言われ、質問には「はい」や「うん」と応じ続けたという。

こういった取調官は、検察庁や警察の内部では、評価が高いもので、「結果を出すためには多少の無理は仕方がない」といった目で見られがちです。
これだけの冤罪事件を引き起こしてしまうと、さすがに本人や周囲も、多少は「しまったな」程度のことは思っているかもしれませんが、記事にあるように、

県警や富山地検はそれぞれ「故意または重過失ではない」「職務上の義務に反したわけではない」と、当時の捜査関係者を処分しない方針を示している。

といった生ぬるいことをやっていては、真の反省や教訓は生まれず、今後も同じ過ちが繰り返される可能性が高いでしょう。
取り調べの可視化ということに、なぜ捜査機関(特に警察)が強く抵抗するのか、ということが、非常によくわかる事件だと思いますし、こういったひどい取り調べを許容するような制度によって日本の治安を維持しようといった野蛮な意見は、そろそろこの辺で完全に排除すべきだと思います。
鹿児島の選挙違反事件にも見られるように、ごく普通に、真面目に生活している人々が、いつ捜査機関の暴走の犠牲になり、有罪方向には熱心な一方で無罪方向には無関心な裁判所の救済も得られることなく、その生活を破壊されかねない、というのが、日本の現状である、ということを、我々は深刻に受け止めるべきでしょう。