捜査において偽装される任意性・信用性

富山の冤罪事件で、証拠が「捏造」されていた、ということが問題になっていますが、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070605#1181001049

これが捏造であれば、捜査機関(特に警察)やっていることは捏造だらけ、という面があります。
例えば、問題になっている被疑者作成の見取り図ですが、いきなり被疑者に書かせて、それを供述調書に添付する、ということをするのではなく(そうする場合もありますが)、何度か(重要なものであれば何度も)下書きをさせ、その間に、取調官から、種々の情報を与え、極端な場合は取調官が「ここは、こうじゃないか」などと言いながら書き加えたりして、最終的に、そういった下書きを見ながら「清書」させる、ということが、かなり広く行われています。これは、ほとんど警察でのことですが(検察庁ではそこまで時間はかけられない)、検察庁では、そういった形で「刷り込まれた」状態において、被疑者が図面を書いてしまいますから、裁判所がよく言う「具体的」とか「詳細」といったことも、その前の警察での取り調べをよく見ないと、信用性(任意性も)は的確に判断できないはずです。
なぜ、「やっていない」被疑者が、見取り図まで書いてしまうのか、ということがおわかりいただけるでしょう。気があまり強くない被疑者に対し、暴力以外は何をやってもよい、ということで、10日から2週間くらい、1日10時間程度の密室での取り調べを行えるのであれば、私でも、やっていないのにやったような見取り図、簡単な上申書くらいは取れるかもしれません(そういう、あざといことを現職中にやっていたわけではありませんので、念のため)。
しかし、こういった実態があっても、証人出廷した警察官は、「図面は自発的に書いた」「誘導はしていない」ということを言いがちであり、そうではない、と公判で主張する被告人、弁護人とは、水掛け論になりがちです。裁判所も、嘘ばかりついている(と裁判所が思っている)被告人の言い分や、お金をもらって犯罪者に加担している(と裁判所が思っている)弁護人の言うことは、なかなか信じない、という傾向があり、最終的には捜査機関ペースで事実認定される、ということになりがちです。この辺は、検事をやっていると、正直言って、裁判所が捜査機関ペースで簡単に認定してくれるので楽だな、と実感するところであり、逆に言えば、弁護士になってみると、真実がなかなか通らず難しい、と実感するところでもあります。
裁判所は、被疑者自筆の書面があれば(見取り図、上申書など)、任意性、信用性を肯定しがちですが、上申書でも、取調官の言うがままに書いている、ということもかなりあり、そもそも、富山の冤罪事件のように、何もやっていないことが証明されている人ですら見取り図を書いてしまっている(実際は「書かされている」わけですが)ということが、そのような安易な認定の虚しさを実証していると言えます。
上記のような実態は、取り調べの全過程の録画・録音を行って記録を残しておけば、水掛け論も避けられ、供述過程の検証を通じ明らかになることでしょう。検察官の取り調べだけ録画・録音しても意味がない(上記のような「刷り込み」の過程が現れない)ということは、こういった点からも明らかだと思います。敢えて言えば、だからこそ、捜査機関は、取り調べの全過程を録画・録音することには、猛烈な抵抗を示す、と言っても過言ではないでしょう。
捜査機関が、かなり強引な方法で「真相」を解明する、裁判所がそれを捜査機関の後見的な立場に立ってチェックし目に余るようなことは認めないが多少の無理には目をつぶる、被告人や弁護人の主張は一応「聞き置く」ものの信用せず捜査機関が思い描いたストーリーは尊重する、という日本の刑事司法を、取り調べ全過程の録画・録音は、根底から覆してしまう可能性が高く、だからこそ捜査機関は必死に抵抗し、逆に、日弁連等はそこを徹底的に問題している、という構図だと私は考えています。
最終的には、国民が、どのような刑事司法の在り方を望むかにより決するしかありませんが、上記のような富山の冤罪事件や、大きく問題になっている鹿児島の選挙違反事件などは、国民の誰しもが、いつ身に覚えのない嫌疑をかけられ、被疑者・被告人の汚名を着せられて塗炭の苦しみを味わいかねない、ということを指し示しています。これらの事件では、不幸中の幸いとして、後に真相が解明されたり無罪判決が出て確定する、ということになりましたが、そうならずに闇に埋もれてしまっている事件は、かなりある、と見るのが常識的な見方でしょう。
取り調べの可視化の問題だけにとどまらず、刑事司法を根本的に変革し新たなシステムを構築する、ということを真剣に考える必要性を痛感します。