戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた?〈週刊朝日〉

戦わぬまま餓死・病死5千人…見放されたメレヨン島、何が生死を分けた?〈週刊朝日〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース

 

1941年、フララップ島に滑走路の建設が始まった。兵士にとって「太平洋の防人」として守備に就く準備を整える。メレヨン島に部隊本隊が上陸したのは、44年4月。3カ月後の7月にサイパン、8月にグアムが玉砕。そのため、それらの南に位置するメレヨン島への米軍の攻撃は皆無になった。加えて日本軍からの食糧補給は、ほぼ完全に止まった。米軍からも日本軍からも「見放された島」がメレヨン島である。

旧軍は、島嶼部に守備兵を置きつつ、連合軍の飛び石的な進撃で、メレヨン島のように、多数の将兵が進撃した連合軍の背後に置き去りにされてしまい、補給も途絶して、多数が餓死、戦病死するという悲惨な状況になってしまいました。

マリアナ沖海戦で連合艦隊が壊滅し、サイパン島が連合軍の手に落ちた時点で、日本全土が空襲される状況になり、日本は制空権も制海権も失い敗戦必至の状態に陥っており、その後はいたずらに犠牲者を増やすだけになってしまいました。早期に終戦に持ち込めなかった当時の戦争指導者の責任は重大だと思いますし、東京裁判で裁くのでなければ、国民の手で厳しく裁くべきだったと思います。

75回目の終戦の日を迎え、戦陣に散り戦火に倒れた人々に対し、深く哀悼の意を表するとともに、日本が戦乱の巷の中に再び入らないように、持てる全ての力を結集する必要があると強く思います。