河野さん宅で剪定作業 松本サリン 元受刑者男性

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008122390062547.html

「噴霧車を造ったときは『ただごとではないな』と思ったが、上から言われたことをやらないと教義が成り立たなくなる」。当時はそう考えていた。だが、事件が起きると「やったのは教団では」と怖くなり、真相が明らかになるにつれ後悔の念に駆られた。裁判で拘置中、河野さんの著書で「家族の幸せだったときの様子や事件当時の状況を知り何とか謝罪しなければ」と思ったという。

この元信者と河野さんの交流については、以前、テレビで紹介されているのを見たことがありますが、元信者の真摯さとそれを受け入れている河野さんの度量の大きさが印象的でした。
私は、平成7年から平成8年にかけて、東京地検公安部に所属し、当時は被疑者の取り調べを主として担当し、主任検事の指示に従って、いろいろな警察署へ行ったりしてオウム真理教の信者を次々と取り調べていました。何人取り調べたか、もう覚えていませんが、東京以外へ出張して調べたこともあり、40人から50人くらいにはなるかもしれません。その当時の印象としては、末端の信者であればあるほど、真面目で物事を真剣に考える人が多く、それだけに、オウム真理教への帰依の気持ちが強く、取り調べが非常にしにくかったことを覚えています。記事で、「上から言われたことをやらないと教義が成り立たなくなる」とありますが、これは、当時、確か「無限の帰依」と言われていて、信者としては、与えられた仕事(「ワーク」と呼ばれていましたが)を疑問を持たずやり通すことが必須であるとされていました。
経済犯罪の被疑者のように、利益というものに敏感な人種であれば、損得の話程度で否認が自白になるかもしれませんが、全財産をお布施して出家し死を恐れていないような信者ですから、そういった人々を取り調べて真相を語らせるということが、いかに困難なことであったかは、容易に想像していただけると思います。
最近、ある事件の資料を読んでいたところ、地検特捜部の検事が公安部や刑事部の検事を馬鹿にしているくだりがあって、やはりこういう歪んだエリート意識を持っているんだな、と思いつつ、特捜部が相手にする被疑者と異なり、オウム真理教の信者のような「確信犯」はしゃべらないとなったら一言もしゃべらず、それはそれで大変なものなのに、この検事はそういった大変な思いを、多分、したことがないのだろうなと思いました。私が取り調べていたオウム真理教のある信者は、非常に真面目で優秀な人物でしたが、黙秘する中、取り調べで追い詰められてくると(怒鳴る、脅す、机を叩くといった底の浅い取り調べでそういう状態にならないことも容易に想像していただけるでしょう)、必死にマントラを唱えて耐えていました。この信者は、その後、検事には本当のことを言いたいと言ってくれるようになって自白し、積極的に、正確性を期した供述をしてくれて、捜査上、大変役立ったことが思い出されます。
そういった人々であるからこそ、考え方を改めた場合の更生の可能性も大きいと思われ、当時、取り調べた信者の中で、上記のマントラを唱えていた信者を含め、今でも頭に浮かぶ人々もいて、今頃どうしているだろうか、家族と一緒に幸せに暮らせているのだろうか、などと、上記の記事を読んだ後に思いました。