オウム真理教関連事件に直面した頃4

平成7年から平成8年当時の、公安部に在籍しオウム真理教の事件を担当している頃の私の生活は、次のようなものであった。
深夜まで仕事をして、帰宅するのは午前1時、2時という状態なので、朝は、何とか午前10時前後に出勤し、出勤すると、午前中は、部屋にあるテレビでニュース等を見ながら、配布されてくる資料(供述調書、捜査報告書、取調べメモ等々)に目を通し検討していた。午後は、割り当てられた参考人の取調べを行ったり、取調べがなければ、夜の被疑者取調べのため、様々な情報の「仕込み」を行いながら過ごすことが多かった。
相手にする被疑者が一筋縄では行かない者ばかりのため、追及したり説得したりする「ネタ」が必要で、かなり時間をかける必要があり、検察庁を抜け出して書店へ行き、仏教とかチベット密教などの本を買い込んできて読んだりすることもあった。今ならインターネット検索を駆使して情報を収集しているところであるが、当時は、まだインターネット普及前の時代で、「紙」の情報に依存せざるを得なかった。
夜になると、自分が担当している被疑者を取り調べるため、留置されている都内の警察署へ出向いて、そこで、昼間は警察官が取り調べている被疑者を、警察官に代わって取り調べるということをやっていた。なかなか取調べが進捗せず、苦労していたことが思い出される。取調べが進捗するかどうかで終了時間は異なり(早くて午後9時ころ、遅ければ午後10時、11時まで)、終了後、取調べ担当の警察官と警察署内で打合せを行い、検察庁に戻って、その日の取調べ状況について報告文書を作成し、主任検事のところへ行って口頭で報告、ということをやっていた。その後、その日の整理をしたりしていると、午前零時、1時ころになり、終電もなくなっているので、同じ方面に住んでいる別の検事と一緒にタクシーに相乗りして帰宅、という状態で、土曜日も日曜日もなく、こういった生活の繰り返しであった。
まだ若かった(平成7年の時点で31歳)から何とかやっていたようなもので、今ならとてもこういう生活は無理であったと思う。当時、事件の主任検事を務めていた先輩検事は、かなり辛そうであり、今になってみると、先輩検事の辛さはよくわかる。
特捜部では、こうした生活を数か月間、続けざるを得ないこともあり、内部でやっている人間にかかる負担には多大なものがある。体力がないととてもやっていられない。
(続く)