トップの過失厳しく認定…三菱自元社長有罪判決

http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_08011703.cfm?from=goo

判決は、河添被告がクラッチ部品の欠陥を知らなかったことは認めた上で、2000年に同社のリコール隠しが発覚した際に、部下による不具合の選別作業が不十分と知りながら、承認した責任を指摘した。検察側の「社長の権限を行使し、未知の不具合にも対応すべきだった」という主張を全面的に認めた形だ。
さらに、事故の予見可能性も「過失により致死の結果が生じるかもしれないという程度で足りる」と、幅広く認定した。

かつて、公害による健康被害等を見据え、過失犯について「危惧感説」という考え方が出され、それは、具体的な予見可能性がなくても「危惧感」程度のものがあれば、それに応じた結果回避義務が課される、というものでした。そういった考え方は、強い批判にさらされ、今では少数説になっていますが、上記のような判決や、それを支える社会の風潮を見ていると、上記のような危惧感説が、安全に対する国民の関心の高まり、安全を確保すべき企業、組織の責任を厳しく問おうとする国民の意識の高まりの中で、改めてクローズアップされ、徐々に有力になりつつあるのではないか、という印象を受けます。
危惧感説に対して浴びせられた批判は、何と言っても、「危惧感」程度の曖昧なもので過失責任を問題ににすることによる、人の活動等に対する過度の制約、といったことでした。危惧感説は、よく誤解されるように、危惧感さえあれば過失責任を肯定しよういう安易な考え方ではなく、「危惧感に応じた」結果回避義務を課そうという考え方でしたが、やはり、そういった発想自体に、広すぎる過失責任を問う危険性というものは内包しているということは言えるでしょう。
過失責任を問う上で、人の活動等に対する過剰な制約は好ましくなく過酷な責任を問うべきではない、という要請と、安全確保に対する国民の期待、要請に応えるべき理論構成を、できる限り両立させるため、どこに基準を見出し線引きを行うべきか、ということが、正に問われているように思います。
その意味で、この事件が、今後、控訴審、上告審で審理される中で、先例となる判断が示されることを強く期待したいという気がします。