絶海の硫黄島

(1)約束 祖父捜す思い、東北の人と一緒
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/504815/
(2)絶望 生還4%の戦場「本土の盾に」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/504921/
(3)英霊 父がいたから今がある「最後の一柱まで遺骨収集」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/dompolicy/505037/

補給も支援もない孤立無援の戦闘を、大越は今、こう振り返る。「本土への攻撃を少しでも遅らせようという戦いだった。僕たちは、日本本土の盾だと思っていた」

野瀬は、まだ10年間は硫黄島の遺骨収集に携わり続けようと思っている。この問題を後世に残さず、自分たちの世代で済ませたいという意志がある。「この島で人生が狂った人がたくさんいる。その人たちはどこで『もういいです』というのかな。俺はやっぱり、最後の一柱までというのが願いだな」

硫黄島における戦いは、米軍が圧倒的に優勢な兵力で攻撃したにもかかわらず、日本軍よりも米軍の死傷者数が上回っていたという、当時の島嶼戦としては稀有なものでしたが、それは、栗林兵団長の戦闘指揮によるものだけではなく、将兵の奮闘努力によるところが大きかったと言えるでしょう。小笠原兵団は、再応召された、年齢の高い将兵も多かったようで、決して精強な部隊ではなかったものが、あれだけの戦果を出したのは、記事にあるように、国を思い本土の盾となるという必死の思いであったことは間違いないと、しみじみと感じるものがあります。
誤った国策、戦略に従い、絶海の孤島で、故郷を、家族を思いながら散った人々に何の罪もなく、きちんと遺骨収集をやり遂げることが、今の我々が為すべきことであるということを強く感じました。