慶応が小中一貫校開校を延期

http://sankei.jp.msn.com/life/education/090721/edc0907211823002-n1.htm

広報室によると「財政状況の変化」が原因で、「できるだけ速やかに着工することを前提に検討する」と話している。
小中一貫校は、慶応義塾創立150周年記念事業の一環として計画された。男女共学で、定員は1学年120人。横浜市から売却された青葉区の土地(約5ヘクタール)に校舎や運動場が建設される予定だった。

慶応ほどの学校が、早稲田ではあるまいし、金がない、ということはないと思いますが、財政状況の変化というのは、何らかの慎重に対処すべき問題でもあったのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20081126#1227658200

でもコメントした

早稲田と慶応 名門私大の栄光と影 (講談社現代新書)

早稲田と慶応 名門私大の栄光と影 (講談社現代新書)

を読むと、早稲田、慶応それぞれの特徴や似ている点、そうではない点がいろいろと指摘、紹介されていて興味深いものがあります。
それを読んでいて、何の客観性もなく、単に主観的に思ったのは、確かに、慶応的な人生、すなわち、都会の恵まれた家庭に生まれ、何不自由なく育ち、一貫校で大学までエスカレーターのように進学し、同じような恵まれた友人に囲まれ、社会に出た後も、そういった有利な状況を最大限利用しながら生きて行く、そういう人生は確かに、楽で魅力的ではありますが、早稲田的な人生、すなわち、田舎の裕福ではない家庭に生まれ、苦しい生活の中で成長し、何とか早稲田大学に合格でき、入学後も、友人と遊ぶ余裕もなくバイトに明け暮れ、それでも、自分なりの目標を持ち、恵まれない中でも自力で運命を切り開き努力する人生というのも、苦しく魅力的ではないものの、それはそれで大きな価値があり、日本が、社会が危機的な状況に陥ったような場合、後者のような人間こそ、必要とされるのではないか、という気がしてなりません。
石橋湛山にしても、杉原千畝にしても、慶応的な土壌の中では生まれようがない、正に早稲田的な環境の中でこそ生み出されるものではないか、と思います。
前者の典型のような麻生首相(慶応ではなく学習院出身ですが、似ている気がします)が、顔をゆがめながら衆議院解散について語る姿を見ていると、なおさらそういう気がしてくるものがあります。