検事総長喚問、森法相が反対姿勢 「検察の独立脅かす」

http://www.asahi.com/politics/update/0313/TKY200903130121.html

検察庁法で、検察官に対する一般的な指揮監督権は法務大臣が持つと規定されていることなどから、森法相は「国政調査の上で事実確認の必要があれば、法務当局が責任を持って対応する」と語った。

法務大臣には、一般的な指揮監督権だけでなく、具体的指揮権(かつての造船疑獄の際、佐藤栄作自民党幹事長の逮捕請訓に対して発動されたことで有名)もありますが、短期間で交代する法務大臣が、しかも、法務所内で検察庁出身者が幹部を務め支配しているという状況の中で、どこまで実質的な意味での、真に国家国民のためになる指揮監督権を行使できるか、ということになると、甚だ心許ないものがあるでしょう。
指揮権発動と言っても、上記の造船疑獄事件の際のように、上がってきたものを政治的な意図でつぶすとか、複数の選択肢の中で(例えば、小沢と二階、とか)、与党の二階はやらないことを条件に野党の小沢はやらせる、といった、積極的に何かをやらせるよりも、受け身で受け止めつつ政敵を追い落とすために巧妙にその権限を行使する、といった形で進められる可能性のほうが高いでしょう。
造船疑獄の際は、逮捕請訓という形で正式なものが上がってきて、それに対し指揮権が発動されたことで大騒ぎになり、内閣の倒壊にまで発展してしまいましたが、そういったフォーマルな手続以外で、事前に、法務省刑事局あたりが法務大臣首相官邸あたりにインフォーマルに根回ししておき、事実上の了承を得ておいてから、フォーマルな手続へと進めば、いかにも上がってきたものをそのまま決裁しました、という体裁がとれることになります。法務大臣や法務・検察当局は、フォーマルな部分についてしか語りませんが(当たり前ですが)、そういったインフォーマルな部分、水面下の部分でも関係者は動いていて、むしろ、そういった部分こそが物事の帰趨を決している場合が少なくない、という感覚は、やはり必要でしょう。
最近、日本中で話題沸騰の国策捜査問題というものを見るとき、そういった感覚、視点というものを持っておく必要があるのではないかと思います。