小尻記者の父「暴力の訴え間違い」 阪神支局襲撃20年

http://www.asahi.com/national/update/0504/OSK200705040001.html

法要には朝日新聞社の秋山耿太郎社長ら約40人が参列し、秋山社長は遺族に「自由な言論を守るため、戦い続ける決意を新たにしました」と語った。

「一殺多生」という言葉があり、元は仏教用語のようですが、右翼関係者が、要人テロ等を語る場合に、この言葉が使われる場合があります。
私自身、一殺多生ということを、長い歴史の中で、100パーセント否定してしまうことは難しいという気はしています(暴力を肯定するつもりはありませんが)。例えば、幕末に桜田門外の変という、井伊大老が、白昼、殺害されるという事件が起きましたが、あの事件を「暴力は良くない」という理屈で否定することは困難でしょう。独裁的な権力を振るう井伊大老の下で、心ある志士たちが次々と死罪になりこのままでは日本の将来は暗転する、という極限状態での事件であり、その後の展開を見ても、やる価値のある襲撃であった、ということは言えると思います。また、第二次世界大戦時のヒトラー暗殺未遂事件(ロンメル将軍も連座を疑われ死に追い込まれる)も、ドイツの亡国を阻止するため、独裁者ヒトラーを捨て身で暗殺しようとしたものであり、失敗には終わりましたが、やるだけの意味、価値はあったと思います。このような場合、「一殺多生」という言葉が、正にあてはまるでしょう。
しかし、日本のような体制の国で、特に最近はインターネットが発達し、誹謗中傷やいじめまでがあまりにも気軽にできてしまうことが深刻な問題になっている、それほど言論の自由が保障された国において(誹謗中傷やいじめが自由の範囲を逸脱したものであることは当然のこととして)、敢えて暴力、テロに訴えるということが、果たして正しいことなのか、ということになれば、それは、やはり否定されるべきでしょう。
一殺多生ということ、そのために一身を犠牲にしても暴力に打って出る場合もありうる、ということを常に心の中に秘め、心の中において常に剣を持ち備える、ということまでも否定はしませんが、実際の行動に出るべき場合なのか、ということについては、慎重の上にも慎重に考え、自制する、ということを、こういった行動に共感を覚える人々には強く望みたいと思います。