長崎市長射殺、死刑破棄し無期判決 福岡高裁

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090929NTE2INK0329092009.html

控訴審でも被害者1人の殺人事件に死刑を適用するかどうかが争点となった。松尾裁判長は判決理由で「民主主義の根幹をなす選挙制度をないがしろにした結果は重大だが、被害者が1人にとどまっている」などと減刑理由を述べた。
犯行動機について、仮装事故での賠償金請求などの不当要求を拒否した長崎市の首長だった伊藤前市長の当選を阻止し、恨みを晴らすためだったと認定。「行政対象暴力として極めて悪質なものだ」と指摘した。

以前、本件については、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080322#1206145360
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20080526#1211802264
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090128#1233132607

とコメントし、その中で、

上記の長崎市長銃撃事件の場合、政治的な動機に基づくものとは言えないようですが、死刑が選択される場合には、この種事件を、民主主義に対する重大な挑戦であり民主主義に対する破壊行為である、と位置づけて、そのような行為を厳罰に処し民主主義を守る、といった見地が、おそらく不可欠になるのではないかと思います。裁判所が、そういったところまで踏み込んで行けるのかどうか、判決が注目されます。

民主主義を守り抜くために、死刑というものを敢えて選択すべきか、民主主義が破壊され多くの人々が死に、あるいは様々な不利益が生じることを防ぐために、一種の「一殺多生」という観点から、死刑という究極の選択を敢えてすべきなのか、といった根源的な問題もあるでしょう。

と述べましたが、高裁判決は、犯行の悪質性を指摘しつつも、動機を個人的なものと捉え、被害者1名という結果を重視しつつ、民主主義に対する破壊行為といった峻厳な見方に立って死刑を選択する、ということは回避したようですね。
ただ、こういった論法では、個人的な恨みを晴らすための犯行で被害者が1名であれば、国民の代表、代弁者として重要な役割を果たす政治家を虫けらのように殺害しても死刑にはならない、ということになりかねず、この種犯罪の抑止や国民感情等に照らし、容認できないという意見もあり得るでしょう。
福岡高検が上告申立までするかどうかはわかりませんが、敢えて上告した場合、そういったこの種の犯罪に対する根源的な見方というものが大きく問題になる可能性は、やはりあるように思います。