司法制度改革TMで「やらせ」準備文書

http://www.asahi.com/national/update/1216/TKY200612150400.html

このTMに誘われて出席した都内の女性会社員(38)は「要領を得た質問が次々に出るもんだと感心した。確かに理解は深まったが、結局は私たちの存在も広報の道具だったのかな。だからと言って、自分が自主的に質問したわけでもない。そんな消極性が『やらせ』を後押ししたところもあるとも思う」と話した。

あらかじめ、「やらせ」で式次第が決まっていれば、「要領を得た質問が次々に出る」のも当然でしょう。やらせとは知らずに聞いていた人々も馬鹿にされたものです。記事の中で、法務省幹部のコメントとして、「役人の仕事を全うしただけ」「罪の意識は、ない」と紹介されていますが、 the Ministry of Justiceの幹部が、やらせを組織的に演出しておいて、罪の意識も感じないようでは、極めて問題でしょう。「Justice」という言葉を辞書で引いて、そこに書いてあることを噛み締めながら読んでみることをお勧めします。
こういった幹部は、通常、検察庁出身で、こういった感覚を持ちつつ、今後、検察庁の要職を登りつめて行くはずですから、考えてみれば恐ろしいこととも言えるでしょう。検察庁が民主的な基盤を持たないことの危険性が、改めて強く感じられます。
こういったことで罪の意識を感じない役所が作った法案(共謀罪をはじめとして)や、行った答弁を、信じろ、というほうが無理だと思います。

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060524#1148435894

もしかしたら、上記の「幹部」は、「役人」という言葉に、「やらせでも何でもやって、国民をだましてでも、省益を図り大臣に傷を付けない」という意味を込め、そういった職務を全うしたことに「罪の意識はない」と自信を持っているのかもしれませんが、そうであっても、許し難いことには変わりはありません。
昔、司馬遼太郎の「世に棲む日日」(「花神」かもしれません)で、幕末に幕府の役人と交渉した欧米の人々が、相手の無責任さ、優柔不断さ、二枚舌等を「ヤクニン」と忌み嫌っていた、と紹介されていたことを思い出しました。
昔も今も変わらない「役人体質」というものも、大きな問題でしょう。