見立て固執した検察幹部 小沢元代表無罪判決

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/558971/

陸山会捜査では、特捜部の一部幹部の中で「見立て」に固執する姿勢が随所に見え隠れした。当時の幹部は「小沢の供述調書の方が問題だ」と言い切り、平成22年の任意聴取の際に作成された調書について、こう明かした。
「証拠を羅列する質問が続いて、小沢の答えはわずか。検察審査会の審査員は、『証拠があるのに答えられない小沢は悪い』と感じるだろうと思った」

「一部に(小沢を)起訴したいという空気があり、あの捜査報告書が生まれたのだろう。トカゲの尻尾切りにはしない」。幹部はこう語る。

特に知能犯捜査においては、ある程度の「見立て」に基づいて捜査を進めることは避けて通れない面がありますが、日本の検察庁が担ってきた使命は、綿密な捜査を遂げ証拠に基づき確実に有罪判決が得られるかどうかを厳正に判断し、そういった基準に達しない被疑者、事件は不起訴処分にして刑事手続から早期に解放することにあったはずで、疑わしい、というレベルで、ここまで小沢氏の起訴に固執した検察庁(というか、一部の不逞の?輩)の策動は、日本の検察の伝統に反し、特異かつ異常なものであったと言えるでしょう。
検事をちょっとやってみればすぐにわかりますが、世の中、疑わしい、という人、事件は山のようにあるもので、それを適切にフィルタリング、スクリーニングして起訴すべきものとそうでないものを適切、的確に振り分けるのが、プロである検察庁、検察官の使命です。疑わしくて有罪になるかどうかわからないが起訴してみよう、で済むなら、検察庁は不要で、警察が起訴、不起訴を決めれば足りるでしょう。小沢氏に関する最初の起訴相当議決後の検察庁における現場の動きを、報道されるところで見ていると、検察庁における厳正な基準では到底起訴できない(だからこそ不起訴にしているわけですが)ことを十分承知の上で、検察審査会で再度の起訴相当議決をさせて、疑わしい、というレベルにとどまり本来は起訴されるべきではない小沢氏を、敢えて公判の場に引きずり出して、あわよくばの有罪を狙う、という、悪辣な意図の下で動いていた疑いが濃厚です(その一環として、上記の記事にもある虚偽捜査報告書もあるわけですが)。このような策動は、検察が営々と築き上げてきた伝統を踏みにじる、一種の自爆テロ行為と言っても過言ではなく、その罪にはかなり重いものがあると思います。先週出た東京地裁の判決の評価には難しいものがあり、私自身としては、状況証拠の評価が有罪方向に暴走し過ぎで踏み込み過ぎている、と感じていますが、その判決ですら、犯罪成立を妨げる認識を小沢氏が持っていた可能性は肯定せざるを得ず、無罪判決(これは本件の証拠構造上は必然的なものであったと思いますが)を導くしかなかったものでした。検察庁、特捜部が法曹、専門家であるという自負を持つなら、いかに起訴、有罪判決が難しいのかがわかるような捜査報告書等を適切に作成して、検察審査会の参考に供すべきであって、そうしたことをしなかった(それはもはや否定できないでしょう、むしろ、これでもか、これでもかと再度の起訴相当議決へと結び付くであろう捜査報告書を次々と作っていたことが明らかになっています)ことは、検察審査会をミスリードして、「疑わしい」にとどまる小沢氏を一か八かの刑事公判に引きずり出し葬ることを狙っていた、と言われても仕方がないのではないかと強く感じます。
こうした、狙った被疑者、事件は嘘でもよいから有罪になればよい、検察庁で起訴できないなら検察審査会を利用して起訴に持ち込み間違ってでもよいから有罪になればよい、という考えが、検察庁のエリートコースである特捜部を支配していた、ということが白日のもとにさらされたのが、陸山会事件における大きな特徴であると思います。その恐ろしさを、国民は広く認識し、深刻に捉えるべきでしょう。