「検察がおかしい 驕りと暴走」(魚住昭) アエラ7月10日号

今週号のアエラに、上記の記事が出ていて、早速、読んでみました。魚住氏は、元共同通信記者で、現在はフリーですが、検察には詳しく、私も、著書は何冊か読みました。
同意できるところとできないところがあって、一口に感想が述べにくいのですが、東京地検特捜部が手がけるような経済犯罪の多くは、立件そのものとか、事件の捉え方、といったことに、どうしても批判がつきまとうことを避けられない、という、一種の宿命のようなものはあると言えるでしょう。経済活動というのは、自由にやりたい、儲けられるものは儲けるだけ儲けたい、という、人間の限りない欲望に基づいて動くものであり、それを規制しようという動きには(刑事が最も強烈な規制ですが)、どうしても反対する動きが出てきます。反対が多いからと言って、それだけで、立件や事件の捉え方が間違っていた、検察が驕り、暴走していた、とも即断できないでしょう。
ライブドア事件にしても、村上ファンド事件にしても、今後の公判結果を見ないと、的確な判断は難しいというのが現時点での私の感想です。
私が問題を感じるのは、特に経済犯罪では、国民としてこういう犯罪は摘発してほしい、逆にこういう行為は犯罪として立件すべきではない、といった民意が、捜査機関による立件等の選択、決断にあたって取り入れられる余地がない、ということです。そういった側面への配慮は、捜査機関の完全な自由裁量に委ねられてしまっていて、上記のアエラの記事にあるような批判を国民の多くが共有していたとしても、それが捜査活動に反映される、という方法が存在しません。これは、小さな問題とは言えないでしょう。
国民の司法参加を考える時、上記のような、捜査に民主的基盤を持たせる、ということも、避けては通れない問題だと思います。検察庁や特捜部を、無批判に礼賛し正義のヒーロー視したかと思えば、一転してけなしまくりバッシングする、といったことを繰り返しているだけでは、いつまでたっても何の進歩もありません。
裁判員制度さえ導入すればよい、というものではなく、司法制度をどのように変革して行くべきか、残された課題はまだまだ多いと言えるでしょう。