検察: 破綻した捜査モデル

検察―破綻した捜査モデル (新潮新書)

検察―破綻した捜査モデル (新潮新書)

検察庁に関する問題、現状、今に至るまでの歴史などが、わかりやすく読みやすく紹介されていて、私自身にとっては既知のことがほとんどでやや退屈でしたが(頭の中の整理にはなりました)、この分野に興味を持つ人には、手軽な入門書、解説書として使えるという印象を受けました。
著者は、平成元年に島田事件の再審無罪判決が確定した当時から、既に検察庁内で従来の取調べや供述調書依存の在り方を改革すべきとする勢力があったかのように書いていますが、これはかなり疑問ですね。確かに酒飲み話レベルでそういうことを口走っていたような検事がいたのかもしれませんが、私自身(平成元年任官)が受けた教育も、いかにして取調べで真相(検察が「真相」と考えるもの、という色彩が濃厚でした)を解明するか、そのためにはあらゆる手段(違法、不当なことをしてよいとは表向きには言われませんでしたが)を駆使すべきこと、供述調書を公判での否認、弁解を圧倒できるようにいかに綿密に切り取って行くか(検察が真相と考えるものを豊富に盛り込んで)、といったことで、1990年代から私が退官した2000年までの間に、そういった手法に検察庁内で疑問が呈されるようなことはなく、むしろ、現在、徹底的な批判にさらされている、ストーリーを作り上げそれに整合するように供述調書を切り取る(目指されるのは「生の供述の録取」ではなく「あるべき供述の録取」で、結局、被疑者や参考人に押し付けることになりやすい)歪んだ手法が、供述獲得による真相解明がますます困難になる中、一種の必要悪として組織全体にまん延して行ったように思います。そういう傾向に拍車をかけたのが、

「これまでの検察・これからの検察」
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20110618#1308378625

で、

検察組織内における特捜部の優位確立には、実は、大きな問題が潜んでいた。公安捜査では、捜査対象が左翼、右翼といった人々で、特に左翼関係者は権力と厳しく対立する姿勢を露わにし、捜査においても刑事訴訟法を忠実に守りつつ進めるべき場面が多かった。それに対し、特捜捜査では、捜査対象がいわゆるホワイトカラーで社会的地位が高い場合が多く、経済人であるため公安事件のような思想性はない上、立件、起訴のために関係者の具体的、詳細な供述を要するため、無理に供述を求める傾向が昔から存在した。公安検事は、そういった特捜検事の手法には批判的な感覚を持ち、組織内で、一定のけん制、抑制を働かせる勢力という側面があったが、特捜検察の優位が確立する中で、そういったけん制、抑制が働かなくなったという面はある。
また、特捜部的な捜査手法が、その問題点がおざなりにされたまま、過度に組織内に蔓延し、若手検事は特捜部配属を夢見て、そういった捜査手法に疑問を持つことなく染まっていったという面もあった。

とコメントしたような側面であったのではないかと思います。
そういった歪んだ手法でも事件が形としてはまとまる、裁判所もそれに安易に乗っかって有罪にする、検察の下僕と化したマスコミも礼賛する、という見せかけの「成功」が積み重なる中で、改革の機会を失い、次第に追い込まれた末の惨たんたる現状、ということは、外部で取材してきた記者には、内部に身を置いていた者ほどは実感としてはわかりにくいのかもしれないな、ということも感じました。
そういった限界はありますが、うまくまとまってはいて、暑い中、さらっと読むにはよい本でしょう。