<日航機墜落事故30年>頭に焼き付いた11歳のままの息子

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150812-00000021-mai-soci

30年前のこの日、2人は裕史君を1人で飛行機に乗せた。客室乗務員が面倒を見てくれる「ちびっこVIP」のサービスを使った。行き先は兵庫県の史代さんの実家。伊丹空港に迎えが来る予定になっていた。見送る時、裕史君がコーラ飲料をせがんだ。政則さんはそれまで飲ませたことがなかったが「じゃあ1回だけ」と許した。親子3人で飲み、「お父さん、おいしかったよ」と言った裕史君。「あれが最後になりました」

30年前の今日、私は、その前月に初めて司法試験論文試験を受験した大学3年生で、その年の前半、司法試験受験準備、本番で忙殺されていたのが、論文試験が終わりちょっと一段落して、広島の実家に帰省していて、午後7時からのNHKニュースを見ながら1人で夕食を食べていて、NHKニュースが午後7時半くらいに終わる直前くらいに、事故の第1報をテレビが報じて知った記憶があります。その時の、自分がいたその場の情景を、なぜか今でも覚えていて、それだけ自分にとっても衝撃的だったのだろうと思います。
平成元年(1989年)に検事に任官し、その年は新任検事として東京地検刑事部や公判部で勤務し、刑事部にいた時、いた大部屋の先輩検事が、この事故の捜査の応援で前橋地検に派遣されていて、しばらく不在だったり、ちょっと戻ってきたりといった状況で、ある時、捜査の見通しはどうですかと聞いたところ、何も状況は語ってもらえませんでしたが、黙ったまま、実に悲しそうな表情で、目を伏せつつ、首を横に振っていた、その時の情景も思い出します。その当時、アメリカのボーイング社関係者からの事情聴取が、アメリカ側の協力が得られず難航していると報じられてた頃で、捜査関係者も、難航する捜査の中で苦闘していた、そういう状況だったのだろうと振り返って思います。
私にとっても、衝撃的な事故であり、犠牲になった方々やご遺族、関係者について報じられることを見たり聞いたりしつつ、実に心重いものがある30年でした。この事故、多くの人々にとって失われてしまった30年、今後も続く歳月が、ただ起きてしまったこと、失われてしまったものに終わるのではなく、あらゆる場面での安全へと生かされていく、そういう流れが確固として確立されることを、心から願ってやみません。