広島市民球場の銘板はずし 開幕投手の息子が父の遺品を携え写真撮影


http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090331/trd0903312059012-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090331/trd0903312059012-n2.htm

広島市民とともにある球場の歴史は、父・良平さんのピッチングとともに始まった。昭和32年7月の市民球場オープン後第1戦の阪神戦に先発登板したのが父だった。試合は大敗に終わったものの、地元ファンには忘れられない、記念すべき試合となった。

その父も、平成18年7月に76歳で死去。今年3月1日には母の淑子さん(享年78歳)も亡くなった。遺品を整理することになった潤さんは1枚の紙を見つけた。昭和25年にカープ入りした際の父の入団契約書だった。
「ユニホームや野球道具は人にあげてほとんど残っていないのに。『ファンに育てられた』という気持ちを忘れないよう、父も母もこれだけは大切に残していたのだろう」

長谷川良平氏については、亡くなった際に

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060729#1154172377

とコメントしたことがありますが、当時の広島カープの弱小状態の中での通算197勝という成績は、目覚ましいもので、言葉に言い表せない重みを感じます。
私が物心ついた頃、長谷川氏は、よく広島カープの試合の解説をラジオ等でやっていて、広島カープに対してかなり辛口の解説で、子供だった私は、正直、あまり良い印象は持てなかったことが思い出されます。しかし、それなりに社会経験を積んだ今になって振り返ると、広島カープのことを思うからこその辛口解説であり、その根底には、自分が尽くし、また、その中で生きてきた広島カープに対する大きな愛、ファンに対する責任感といったことがあったのだろうと思います。
解説中の声が今でも思い出されますが、存命であれば、ちょっと突き放したような言い方で、「新球場になって喜んでいるだけでは駄目で、結果を出してほしいですね。」と辛口のコメントがあったのではないかと、懐かしさの中で思いました。