言問橋

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E5%95%8F%E6%A9%8B

1945年3月10日の東京大空襲のさいには、浅草方面から火に煽られた人々が一斉に橋の上に逃れたが、この橋の上も炎が走り、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちていったという。空襲が終わったあと、隅田川は一面死体が浮き、言問橋の上にも河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていた。
また、1994年の改修工事までは、縁石に人体の脂の黒ずみが多数残っていたようだ。現在は一部の縁石が墨田公園に展示されているらしい。ただし、橋の親柱は、一部未改修のため現在も東京大空襲で焼け出された人の脂の黒ズミが残っている。

少し前に、日本テレビで放映された、東京大空襲を描いたドラマを、録画しておいて少し観ましたが、言問橋が繰り返し映し出されていたのが印象的でした。
言問橋は、何度か車で通ったことがありますが、東京大空襲について書かれた本などで読むと、筆舌に尽くしがたい、悲惨きわまる状態であったことがよくわかり、車で橋の上を、ただ通り過ぎるのが申し訳ないという気持ちになるほどです。通る際には、ここで亡くなった大勢の方々に対し、心の中で手を合わせ、そのご冥福をお祈りしています。おそらく、ここで亡くなった方々は、なぜ非戦闘員である自分達がこのような悲惨な死を迎えなければならないのか、それを問いたいと思いつつ、無念な思いの中で亡くなっていったことでしょう。その意味でも、「言問橋」という名称には感慨深いものがあります。
終戦が、あと、せめて半年早ければ、東京大空襲沖縄戦、広島・長崎の原爆、その他の日本各地への空襲等はなく、数十万人もの尊い人命が救われていたと思うと、残念でなりません。