「遠縁」吉良記者ゆかりの本所を行く

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20071214-OYT8T00131.htm

吉良邸周辺を歩いて、気づかされたことは上野介に同情的な人が多いこと。思えば、吉良という名前は電話口で「え、木田さんですか?」と間違えられることも多い。そんなときは自信を持ってこう言おう。「上野介の『吉良』です」と。

忠臣蔵は、吉良上野介が悪者になればなるほど盛り上がる、という構造になっていて、ドラマ等では、これでもか、これでもかという感じで悪者にされますから、その意味では、気の毒な面があります。吉良上野介も、あの世で、こんなことになるなら、浅野内匠頭にもっと親切、丁寧に接していれば良かったと、悔やんでいるかもしれません。もう遅いですが。
昨日、午後に横浜で、ある事件の関係の記者会見に臨んだ後、東京に戻り、泉岳寺で行われている義士祭をのぞいてきました。多くの人が集まり、赤穂浪士の墓前にも多くの人が集まっていましたが、浅野内匠頭の墓前には集まる人もまばらであったため、線香を手向けておきました。
忠臣蔵が、なぜ、今なお日本人の心を捉え支持されるかと言えば、単に、主君の仇討ち、というだけにとどまらず、足利氏にもつながる名門であり高家という高い格式を誇る吉良上野介やそれを庇護する幕府に対し、外様の小藩に過ぎない赤穂藩があっけなく取り潰された後、赤穂浪士が、周辺の人々の理解や協力も得つつ、仇討ちと言う一大プロジェクトを実現して行く中で、武士として、人間としての意地を貫き、知らしめて行く、その姿に強い共感が感じられるからではないかと思います。
赤穂浪士の活躍に注目が集まりますが、私は、背後で支えた瑤泉院など、周辺にいた関係者の貢献度も大きいと思っています。特に、瑤泉院は、手元にあった化粧料(瑤泉院の手持金)を、赤穂浪士の活動資金として提供しており、瑤泉院が資金提供に難色を示していれば、討ち入りは不可能か、著しく困難であったことは間違いないでしょう。その意味で、浅野内匠頭は、一説では名君ではなく暗君であったとも言われますが、良い家来だけでなく、良い正室を持った、ということは言えるように思います。
「南部坂雪の別れ」という、大石内蔵助瑤泉院に別れの挨拶に来たが吉良方の間者(スパイ)がいたため別れを告げられずに雪の南部坂を立ち去る、という名場面があり、史実ではないようですが、内蔵助から瑤泉院に宛てた、化粧料の精算報告の書面は実際に残っていて、内蔵助としても、その書面をしたためながら、瑤泉院の陰ながらの尽力に、深く感謝するところは確実にあったと思います。
泉岳寺では、赤穂浪士墓所の脇に、瑤泉院のお墓が目立たず建っていますが、このような面にも目を向け、行く機会がある方には、線香でも手向けていただきたい、という気がします。

追記:

【衝撃事件の核心】起訴する?しない? 「反省」しても否認の守屋夫人、どうなる刑事処分
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/071215/crm0712151809048-n1.htm

「おねだり妻」と瑤泉院を比べては、瑤泉院にあまりにも失礼、という気がしますが、同じく「妻」でも、この落差にはすさまじいものがありますね。