ライブドアと日興コーディアル

似たようなことをやったにもかかわらず、なぜライブドアが立件され、日興コーディアルについては立件の動きが見受けられないのか(水面下での動きがあるのかもしれませんが)、ということについては、私も強い疑問を感じています。特に、堀江被告人に実刑判決が宣告されたという現状においては。
また、ライブドア上場廃止になった一方で、日興コーディアルが上場維持という結論になったことについても、強い疑問を持っています。多数の利害関係者がいたという点では、ライブドアも同様だったわけです。この取り扱いの大きな違いの理由は何か?
報道では、

日興コーディアル 旧経営陣に31億円賠償請求
http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200702280005a.nwc

刑事責任追及は「証拠的に訴訟に耐えるのは厳しい」(弁護士)との判断から見送った。

とされていますが、民間(弁護士を含む)では調査能力に限界があるからこそ、捜査機関に告訴・告発するのが筋なのに、日興コーディアルから依頼された弁護士程度の判断で、早々と上記のようにあきらめてしまうのはなぜか?これで企業として社会的責任を全うしていると言えるのか?
東京地検(及び証券取引等監視委員会)にしても、また、東京証券取引所にしても、このような取り扱いの違いについて、大きな説明責任を負っているのではないかと私は思います。このまま、うやむやに終わらせてしまっては、やはりライブドアは新興で出過ぎた真似をしたので叩かれつぶされた、日興コーディアルは既成の秩序の一角を大きく担っていたから救済され存続を許された、という、多くの人々が根強く抱く疑念をますます増大させ、今後、あるべき法秩序に対する人々の信頼に深刻な亀裂を生じかねないでしょう。そのことを、私は、今、強く憂慮しています。
以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061101#1162314795

でも、検察庁による偏頗な取り扱いを批判して、

こういったことが、徐々に、人々の規範意識を弛緩させ、ダムが決壊するように、法秩序の崩壊へとつながって行く

と述べたことがありますが、改めて同様の危惧を強く感じています。
少し余談になりますが、検察庁が、今まで何とか国民の信頼を得ることができてきた大きな力となったものの1つに、ロッキード事件田中角栄元首相を逮捕、起訴し、被告人死亡により田中元首相については公訴棄却となったものの、裁判所(最終的には最高裁)により、田中元首相の関与を含む事件全体の構図については、ほぼ検察庁が描いた通りと認められた、ということがあると思います。ロッキード事件については、改めて本ブログでも触れる機会があると思いますが、ロッキード社という多国籍企業による世界的な贈収賄事件であり、世界各国で、数々の政府高官等に対する贈賄工作が行われたにもかかわらず、各国の捜査は、様々な政治的圧力等により次々と頓挫し、捜査により真相を解明し元首相にまで到達できたのは日本だけでした。この事件は、日本の司法による真相解明能力が、政治による影響を受けつつも、それをはね返し田中元首相のような極めて有力な政治家(一時は「闇将軍」「キングメーカー」と言われ政治力をほしいままにしたことが思い出されます)であっても、厳正に捜査対象とし、証拠に照らし起訴もする、有罪も宣告する、ということを日本だけでなく世界的にも知らしめた、という意味で、歴史に残る事件でした(その意味では、大津事件と匹敵するか、それ以上の意義があったと私は考えています)。
私も、検察庁在職中、いろいろな機会に、事件関係者等から、検察庁は警察とは違って政治の圧力に屈しない、やるときにはやってくれる、あの田中元首相ですら起訴したのだから、という話を聞き(それだけ、あの時代を知る国民にとっては印象的だった、ということでもありますが)、そのことにより、自らが捜査・公判を進める上でも、随分助けられたものです。
ロッキード事件では、逮捕、起訴だけでなく、その後の公判維持の過程においても、検察庁の諸先輩の方々は、様々な政治的圧力に耐えていたものであり(国会の議場で田中元首相が法務大臣と握手をしたことが大きな話題になったことも思い出されます)、諸先輩の、このような血がにじむような努力を、現役の検察庁職員は無にすべきではないでしょう。
東京地検が(今後、ライブドア事件控訴審を担う東京高検、指揮指導を行う最高検を含め)、今後もライブドア事件の捜査、公判の正当性を主張するためには、どういった結論になるかはともかく、日興コーディアルについても捜査の対象にした上で、起訴が難しいのであれば、国民に対し、その理由をきちんと明らかにすべきでしょう。