インターネット実名制めぐり再度論議沸騰

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/06/15/20050615000077.html

韓国での状況が紹介されています。日本同様か、それ以上に議論が沸騰しているようです。

参与連帯や進歩ネットワークセンターなどは「サイバーテロを加えるのは一部のネティズンであるにもかかわらず、これを全体に拡大し、実名制を強制するのは許されない」との立場。
これとは反対に「不便であったとしても、成熟したインターネット文化を創出するためには仕方ない」(ネイバー、ハンドルネーム「gkfn96」)という賛成意見も少なくない。

この問題は、いろいろな切り口が可能ですが、一つの見方として、我々がどういった社会を望むのか、ということがあると思います。
一つは、自由が原則で、言いたいことが言えて、やりたいことが自由にでき、そういった自由の中に、匿名による発言も含まれている社会でしょう。もちろん、何をやっても良いわけではなく、事柄の性質に応じて一定の制約はかかってきますが、自由が尊重されますから、制約はあくまで例外的、限定的です。
もう一つは、平穏とか安全といったことが重視され、そのためには自由が制約されるのは当然、という社会です。基本的に不自由な社会と言い換えても良いでしょう。街を歩けばあちらこちらに防犯カメラ、車で走ればNシステムで捕捉、発言する場合は匿名は許されない、知らない子供には声をかけてもいけない、自らの主張を知ってもらうために集合住宅の敷地に足を踏み入れただけで逮捕、起訴される、といったことが常態化すれば、確かにいろいろな違法・不当行為は起きにくくなるでしょうし、平穏、安全な社会は実現できそうです。しかし、社会の活気は失われ、崩壊したソ連・東欧諸国のような、閉鎖的で、相互が常に監視しあっているような暗い社会になりそうです。
上記の社会は、一種のモデルであり、現実には、いろいろなバリエーションがあり得ると思いますが、一つの見方として、こういったものもあるのではないかと思います。