誘拐殺害犠牲者の殺害場面公開について(若干の検討)

この問題について、私は、昨日のこのブログのコメント欄で、

「思慕権」というのは、私の造語で、わからないのが当然なのですが、山口県自衛官合祀事件の下級審で、「人が自己もしくは親しい者の死について、他人から干渉を受けない静謐(せいひつ)の中で宗教上の感情と思考を巡らせ、行為をなすことの利益を宗教上の人格権の一内容としてとらえることができる」といった判断が示されており、血縁者の死の場面をみだりに公開されないことが、上記のような意味で(宗教とは無関係ですが)、人格権の一種として保護されるのではないか、名付けるならば思慕権とでも呼ぶべきか、と考えたことによるものです。表面的に考えると、遺族のどのような人権が侵害されたと言えるのかがわかりにくい面があると思います。その意味で、法務省が、そのあたりを明確にしないまま、「人権」侵害として削除要請をしたことには疑問が残ります。

と述べ、参考論文のご指摘も受けました(まだ読めていませんが、読んでみたいと思っています)。
今後も、こういった問題が生じる可能性もあるので(生じないことは祈っていますが)、手元にある

人格権法概説
「プライバシー侵害と民事責任」(竹田稔・著)

で調べてみました。
まず、問題となるのは、「死者の人格権」を認めるかどうか、ということになると思います。この点については、肯定説と否定説に分かれており、裁判例は、肯定説に立つものもあるようですが、否定説のほうが主流のようです。私は、死んでしまった人について、一身専属権とされている人格権を認めるのは、法理論上、困難と考えており、ここは否定説が妥当ではないかと考えています。
否定説に立つ場合、遺族固有の人格権や、遺族の死者に対する「敬愛追慕の情」(私が既に言っている「思慕権」もこれを想定しています)の侵害、という構成により、保護すべきものを保護する、という理論構成になるでしょう。裁判例では、敬愛追慕の情の侵害、という構成をとるものも多いようです。
ただ、この考え方に立つ場合、遺族がいない場合はどうするか、「遺族」にはいかなる範囲の者を含むか、といった問題が生じてきます。遺族がいなければ、死者については何でもやりたい放題、というのも、抵抗を感じますし、あまりにも血縁関係の遠い遺族となると、保護すべき法的利益があるかどうか疑問が生じてくるでしょう。
なお、上記の著者のうち、五十嵐先生は死者の人格権(正確には「人格的利益」と述べられていますが)を肯定する考え方、竹田先生は死者の人格権は否定した上で、遺族の死者に対する「敬愛追慕の情」についても法的利益とは言えず、遺族固有の人格権を保護するという考え方をとられています。
私は、今回のイラクで殺害された日本人については、「思慕権」の侵害(敬愛追慕の情の侵害)という構成が最も妥当ではないかと考えていますが、竹田先生のように、遺族固有の人格権を保護する、という考え方に立った場合、上記の亡くなった人質の遺族が保護されるかどうかには難しいものがあると思います。殺害場面の公開が、遺族の名誉毀損(社会的評価の低下)になるとは考えにくいと思いますし、名誉感情の侵害という構成も困難でしょう。プライバシーという観点で見ても、既に全世界的に公開されている情報であり、プライバシー性を肯定することも困難であると思います。
法務省は、

http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2004/11/05/5279.html

によると、

法務省人権擁護局によれば、外部からの情報提供を受けて、インターネットの掲示板上にある遺体の画像および書き込みを確認。内容が遺族の感情を傷つけ、人権侵害にあたるものだとして、4日に掲示板の管理者に対して削除を要請し、すでに画像と書き込みは削除されたことを確認しているという。

とのことで、「遺族の感情を傷つけ、人権侵害にあたる」という表現によれば、敬愛追慕の情の侵害、ととらえているような印象を受けます。死者の人格権は肯定できない、という立場に立っているのでしょうか?
この構成の場合、上記のとおり、遺族がいない場合、あるいは、いても遠い関係にしか過ぎない場合、削除要請の根拠が見当たらず、要請は困難ということになりかねませんが、法務省が、こういった問題について、理論的に何をどのように考えているのか、是非聞いてみたいという気がします。