http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20140305-OYO1T00242.htm
4日、報道陣に公開された石垣は幅約2メートル、高さ約6メートル。1984年の調査で発見され、自然石を使う古い技法「野面積」が特徴。
再発掘した石垣は、豊臣期の城の最上部にあたる「詰ノ丸つめのまる」の南東角に眠っていた。切り出して整形した石を用いている徳川期の城の石垣と異なり、自然石のほか、古代の建物の礎石、石臼なども使っている。表面が赤茶けた色に変わり、そげたようになった石が複数見られ、落城した様子がうかがえるという。
現在の大阪城は、落城した豊臣期の大坂城を地中に埋めてしまいその上に徳川幕府によって築城されたもので、このように、地中には古い大坂城が眠っています。私は見に行けないのが残念ですが、落城の様子もうかがえる石垣から、豊臣家の影響と悲劇を感じられるのではないでしょうか。
私は、行った先で城があると、素人の興味で見学するのが好きなのですが、浜松城に、出張のついでに立ち寄った際、「野面積」の石垣がよく残っていて、こういうものなんだなと強く印象に残ったことが思い出されます。乱雑に積み上げたように見えて、しっかりとした堅固な石垣に仕上がっていて、当時の技術の高度さには驚くべきものがあるとしみじみ思います。