家康築城時の様子、詳細に=新たな江戸城絵図発見―松江市

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170208-00000068-jij-soci

調査の結果、江戸城本丸の出入り口は五重だった上、敵を討つために城壁を外側に張り出した構造だったことが判明。また天守は姫路城のように、大きい天守と複数の小さい天守をつなげた「連立式天守」だったことが確実になった。
調査した奈良大の千田嘉博教授(城郭考古学)は「攻撃的な要素のある城だったことが分かった。豊臣氏との戦いに備えていたとみられる」と話している。

江戸城は、江戸期にそこで攻防が繰り広げられることがなく、また、江戸初期に大火で天守閣も失われて、初期の姿があまりよくわからない(少なくとも一般には知られていない)状態ですが、記事を見ると、実戦に備えた堅固な造りであったことが窺えますし、西からの攻撃だけでなく、おそらく北や東(例えば東北方面)からの攻撃も想定していたのではないかという気がします。関ヶ原の合戦大坂の陣でも、徳川家康は進撃するにあたり背後への備えも行なっていて、拠点としての江戸城はかなり堅固なものとして存在していたのでしょう。
今後、さらに解明が進んで、初期の江戸城の姿がより具体化することを期待したいと思います。