http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090319/trl0903190309002-n1.htm
死刑適用の基準とされているのが、ピストルで4人を射殺した永山則夫元死刑囚の判決で、最高裁が昭和58年に示した「永山基準」である。下級審はこれを判例として、この基準に沿って判決を言い渡してきた。
永山基準は(1)犯罪の性質(2)動機(3)殺害方法(4)被害者数(5)遺族の被害感情−など9項目をあげ、総合的に考慮して、判断するというものだ。とくに被害者数が重要視され、これまでの下級審では、1人の場合は死刑を回避する傾向が大半だった。
最近の例でも東京都江東区の女性殺害遺体切断事件の判決で、東京地裁は「死刑は重すぎる」とし、無期懲役を下した。素人の国民にとっては、被害者が1人なら死刑にはならないという風潮さえ生まれているのが現実だ。
今回の判決で、名古屋地裁の近藤宏子裁判長は、社会常識に沿ったごく自然で当然の判断を下したものと評価したい。
このところの犯罪は、凶悪化が顕著で、ネットを利用した匿名性の高い犯行などその質も多様化している。最高裁は、26年も前の永山基準を見直し、裁判員が納得できる明確な死刑基準を示す時にきている。
永山判決で示された基準は、「とくに被害者数が重要視され」たものとは言えないでしょうね。むしろ、その後の死刑か無期かが争われた事件の中で、やや、被害者数にウェイトを置いた判断が示されてきた、というのが実情ではないかと思います。その点は、最近の厳罰化の流れもあって、徐々に修正されていますが、上記の記事にあるように、「被害者が1人なら死刑にはならないという風潮さえ生まれているのが現実だ。」などという「現実」があるとは思えず、被害者が1名であっても死刑になる場合もあればそうならない場合もあって、名古屋の事件は前者、江東区で発生した事件は後者と見るべきでしょう(あくまで、現時点では1審の判断ですが)。
犯罪の凶悪化に対しては厳罰化で対処する、というのは、よくある一つの主張ですが、厳罰化というものをどこまで推し進めれば良いのか、本当に厳罰化が犯罪抑止につながるのか、といったことについても、慎重に検討しないと、刑事裁判というものが、ますます復讐を目的としたもの、人々の処罰感情を満足させる場へと変容し、国家刑罰権というものをいかに行使すべきかという理性的、冷静な判断が困難になる危険性がますます増大する恐れがあります。裁判員制度というものも、使い方を間違えれば、日本の刑事裁判を取り返しがつかないレベルまで退化させてしまうということになりかねないでしょう。