無罪判決を書く裁判官は出世できないか?

http://d.hatena.ne.jp/okaguchik/20080628/p3

について、コメントでも話題になっていますが、無罪判決を出したことそのものというより、その内容が問題なのではないか、というのが私の感想です。
検察庁内部では、1審での無罪判決、実刑相当事案での執行猶予判決、といったものを「問題判決」などと称して検討し、私もそういった検討の場に加わったことが何度もありましたが、そういった判決が出るのが必然、あるいは、そこまでは言えないもののそういった見方も十分あり得る、という場合があります。そういう判決に対しては、ほとんどの場合、そもそも控訴ができなかったり、控訴しても棄却される、ということになります。
その一方で、これでこの判決はないだろう、ということが感じられる、証拠の評価を誤るなどした文字通りの「問題判決」というものも確実に存在し、そのような判決に対しては、ほとんどの場合、控訴して破棄され有罪、あるいは実刑になる、ということになります。
被告人、弁護士には、その立場からの見方というものがあり、確定した判決について、これはおかしい、不当だ、ということを強く感じる場合も多々あって、そういった見方から、上訴審で破棄はされたが一審の無罪判決、執行猶予判決が正しかった、と感じられることも当然ありますが、そのような印象と、日本の裁判制度における証拠に基づくスタンダードな、オーソドックスな処理として妥当かどうか、という判断には「ズレ」がある、ということも少なくありません。
裁判所における裁判官の勤務評定が、どのように行われているか、私の知るところではありませんが、中身そのものというよりも、上記のような一連の流れについて情報収集が行われ、総合的に評価され、その後の処遇に反映されることになるのではないか、という印象を持っています。無罪が出て当然、あるいは、無罪という見方も当然あり得る、という事件で無罪判決を出しても、だから出世できない、冷や飯を食う、ということはないと思います。
個別の判決の内容を独立して見ているとわからないことでも、集積したものを見て行くことで、その裁判官の能力はそれなりに見えてくるものであり、無罪を書くから出世できない、というのは、短絡すぎる見方ではないかと思います。
私のように、検察庁で冷遇され出世に縁がないままドロップアウトした、見方を変えれば放逐されたことを根に持たず、前向きに生きることを目指している、というタイプは、どちらかというと少数派であり、法曹というものは自信過剰な人が多いだけに、出世(自分はこの程度まではなれたはずだ、という主観的な目標)欲が満たされなかったことをいつまでも根に持ち、後ろ向きにこだわり続け、その原因を、自分ではなく他に求める人は非常に多い、という実態があります。そういう、原因を他に求める中で、「無罪を書いたからだ」などということが、まことしやかに語られる場合もあり、「そうではない」という完全な反証が困難であるだけに、そういった話は一人歩きしがちという厄介な面もあります。この種の話を聞く場合には、そういった危険性ということも念頭に置く必要がある、ということも感じます。