http://www.asahi.com/national/update/0127/TKY200801260305.html
報告書では、警察・検察の捜査について「(容疑を認める)供述書が具体的、詳細で迫真性に富んでいる」と指摘。「調書の内容や供述経過を重視して任意性を判断するという従来の裁判所の手法は、通用しなくなっている」と述べ、可視化の必要性を訴えている。
弁護人の活動についても「接見回数も時間も少なかったため、男性との意思疎通が不十分なままに起訴事実を認めていると判断した」と言及。弁護活動のマニュアルや、容疑者や被告に弁護活動の内容を説明する文書を用意するといった改革の必要性を説いている。
裁判所が、自白の任意性や信用性を肯定する際、よく「具体的、詳細で迫真性に富んでいる」などと述べますが、冤罪でやってもいない人でも、そういう供述調書が作成されてしまう、ということは、よく覚えておいたほうが良いでしょう。これは、供述調書の作成過程を考えれば、当然のことで、取調官は、供述を速記録のように逐語的に記録するわけではなく、取調官の頭の中でストーリーを築き上げ、脚色も交え、裁判所に「具体的、詳細で迫真性に富んでいる」などと言ってもらえる表現を作り上げて調書化し、事件によっては、無理矢理、被疑者に署名させているわけですから、やってもいないのに、そのような供述調書ができてしまう、ということも起きてしまいます。そういったことを防止するためには、取調べの録画・録音、全面可視化が必要、ということは明らかでしょう。
昔、若手検事の頃、そういった取調べ能力が向上してきて、ある、やや大きめの事件に応援検事として投入された際、他の検事が調書をとれない参考人(被疑者的な性格が強い)を次々と割り当てられ、次々と調書を作成している中で、ある参考人から、署名しようとしている調書について、「検事さん、私は、今日、どのような調書でも署名しようと思って検察庁に来ました。この調書に署名することにも異存はありません。ただ、調書に書かれている内容が、私の記憶や認識とは大きくかけはなれていて、本当に署名してしまって良いかどうか、非常に不安です。」と、逆に相談をもちかけられたことがありました。それに対し、私が何と言ってどのように対応したかは、ここでは言わないでおきますが、取調べの現場では、現実にそういうこともある、ということです。
弁護活動としては、やはり、自白調書ができてしまっていても、接見の際によく事情を聞いて、事案の問題点に即した適切な弁護活動をする、ということを、基本に忠実に、丹念に行うしかない、ということではないかと思います。
最近も、ある事件の関係で、勾留中の被疑者から、以前の刑事事件で弁護を担当した弁護士(若手)に対する不満を聞きましたが、その弁護士にもそれなりに言い分はあると思われるものの、接見の際のコミュニケーション能力にかなり問題があったようであり、今後、法曹大量養成時代の中で、何かと批判の多い法科大学院や、修習期間が1年に短縮され大量の司法修習生を抱える司法研修所でどこまで教育が可能なのか、その後においても、特に、裁判所や検察庁ほどの手厚い教育体制がとれない弁護士会、法律事務所においてどこまで継続教育が可能なのかを考えると、かなり厳しいものがあるように思いました。