検察官の訴追裁量は、国民すら立ち入ることができない聖域か?

本日のテレビ朝日サンデープロジェクト」でも話題になっていましたが、

村岡元長官に逆転有罪判決 1億円ヤミ献金事件控訴審
http://www.asahi.com/national/update/0510/TKY200705100187.html

で、裁判所が、

これら派閥幹部について検察側が共犯として起訴しなかったことにも言及。「元長官と同じ事実で起訴する処理も考えられる」と異例の指摘をした。「しかし結局は、検察側の裁量の問題だ」と述べ、起訴しなかったことの是非には踏み込まなかった。

という問題があります。
控訴審における有罪判決の当否は、証拠を見ていない立場でコメントしかねますが、上記の「検察側の裁量の問題」には、かなり深刻なものがあるように思います。
この問題については、以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070129#1170025278

でコメントしたことがあります。
高裁が言うように、この問題について、過去の判例では、いわゆる「不平等起訴」(複数の被疑者に対し、恣意的な起訴、不起訴が行われる)について、不平等であるが故に起訴に影響が出る、という仕組みにはなっておらず、裁判所はこの問題から逃げてしまっています。
では、不当に不起訴になった者について、不正義が是正されるか、と言うと、上記の日歯連事件でもそうであり、また、明石の歩道橋事故でもそうであったように、検察審査会が「起訴相当」「不起訴不当」という結論を出しても、検察庁は、そういった結論を尊重しようとはせず、不起訴にした者は不起訴、という判断に固執しがちです(この点は、今後、制度上、一定の改善は行われますが)。
結局、検察官の訴追裁量は、裁判所は放置、検察審査会も立ち入ることができない、ということで、国民の主権に由来するものであるにもかかわらず、民主的な統制が著しく困難(不可能に近い)一種の「聖域」になってしまっている、ということになります。
従来は、そういった「非政治性」を積極的に評価する論調が優勢でしたが、現在のような種々の問題点に照らすと、本当にこのままで良いのか、ということを十分検討する必要があるでしょう。
私が以前から指摘しているように、国民の司法参加は、裁判員制度が軌道に乗ればそれで成功、という問題ではなく、司法制度全体について検討されなければならず、検察官の訴追裁量の問題も、その文脈で検討されなければ、独善的な訴追裁量の行使、といったことが今後も繰り返される恐れが非常に大きいと思います。