Winny京都地裁判決要旨を読んで(後)

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061217#1166287607

の最後で、「判決要旨の論理を手掛かりに、どのような点に留意すれば、この種行為について違法視されることを回避できるか(回避しきれるかどうかはともかく)、について、やや手掛かりのようなものも見えてきたような気もします(おぼろげなものにしか過ぎませんが)。」と述べましたが、この点について、少し考えてみたいと思います。
判決が言う「価値中立的な技術」があった場合、それを最初に世に出す段階では、善用されるか悪用されるか不明と考えられますから、価値中立的なものである限り、最初に世に出す段階で幇助犯に問うのは困難、ということになるでしょう。ただ、技術自体は価値中立的であっても、それを世に出せば、かなりの確率で悪用される、という状況がある、という話になってしまうと、それを認識、認容して世に出すことは幇助である、という認定を受ける恐れが出てくるでしょう。そのあたりにつきまとう不気味な曖昧さは、京都地裁判決が本質的に内包するものです。
では、技術が世に出た後、不幸にして悪用されるようになり、その度合いが高まってきた場合はどうでしょうか。京都地裁判決に沿って言えば、悪用方向で「広く利用されている現状を十分認識しながら」「これを認容して」さらなる開発、公開を続ければ、幇助犯に問われる恐れというものが生じてきます。
「前」で指摘したように、「広く利用されている」の中の「広く」の程度は不明というしかありません。したがって、何をどの程度「認識」すれば幇助犯になってしまうかも不明です。
このような、曖昧かつ不安定な状況下で、できるのは、そういった状況を「認識」しないこと、認識した場合であっても「認容」しないこと、ということでしょう。
認識しない、というのは、単なる冗談ではなく、京都地裁判決が主観的態様に重きを置いている以上、下手な認識は持たないように注意する、というのは、幇助犯に問われないためには重要でしょう。あまり良い言葉ではありませんが、「見ざる、言わざる、聞かざる」という、一見、無責任な態度が、幇助犯に問われないためにはむしろ必要、という、悲しくも皮肉な事態が生じてしまうことになります。
後になって、認容していた、と指弾されないためには、認容しないように注意し、かつ、認容していない、ということを証拠としても残しておく必要があるでしょう。開発、公開を続けつつ、悪用に反対する姿勢をいろいろな形で示すとともに、そういった悪用防止の姿勢が、開発、公開の中に具体的に反映されるようにして、「認容していない」ということを実績で残しておく、ということが重要だと思います。
ただ、このような努力を行ったとしても、有罪、無罪の分水嶺が明確ではなく、決めるのは最終的に裁判所で、予測可能性が担保されていない、という状況が現に存在しますから、有罪になる、ならないは、その時々の捜査機関の思惑や裁判所の胸先三寸、ということは避けられないでしょう。
こういった状態で、ソフトウェア開発者等に、萎縮するな、と言うほうが無理だと思いますが、そこは、悪い国に生まれたと思ってあきらめるか、このような国ではやっていられない、と別の国へ脱出するかの、いずれかしかないでしょう。個人的には、現状では後者をお勧めしたいと思っています。

(一応、終わり)