Winny京都地裁判決要旨を読んで(前)

判決要旨を一通り読んでみました。
最も問題になるのは、「補足説明」の中の「6 被告人に対する著作権法違反幇助の成否」でしょう。
判決要旨では、被告人の行為が、「客観的側面としては」、正犯の行為を有形的にも精神的にも容易にしたことが明らかであるとした上で、

もっとも、WinnyP2Pファイル共有ソフトであり、被告人自身が述べるところや村井供述等からも明らかなように、それ自体はセンターサーバを必要としないP2P技術の一つとしてさまざまな分野に応用可能で有意義なものであって、被告人がいかなる目的の下に開発したかにかかわらず、技術それ自体は価値中立的であること、さらに、価値中立的な技術を提供すること一般が犯罪行為となりかねないような、無限定な幇助犯の成立範囲の拡大も妥当でないことは弁護人らの主張するとおりである。

と述べて、弁護人の主張にも、一応、理解ありげな姿勢を示し、その後に続けて、

結局、そのような技術を実際に外部へ提供する場合、外部への提供行為自体が幇助行為として違法性を有するかどうかは、その技術の社会における現実の利用状況やそれに対する認識、さらに提供する際の主観的態様如何によると解するべきである。

という基準を示した上で、被告人の目的、主観的態様の検討に入っています。
ここでわかるのは、裁判所が、本件のような行為の有罪、無罪を、構成要件該当性の問題ではなく、違法性の問題として捉え、違法性を判断するにあたっては、「その技術の社会における現実の利用状況」を前提に、それに対する行為者の主観的態様により決まる、と考えている、ということでしょう。
私は、以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20040906#1094473097

という見方を示したことがありますが、裁判所は、この問題を、行為の社会的相当性の問題と見ている、と言ってもよいのではないか、と私は判決要旨を読んで感じました。ただ、どういった現実の利用状況があり、どういった主観的態様であれば有罪なのか、ということは、一般化できる基準としては何も提示されていません。
被告人の目的、主観的態様については、供述調書に、任意性(奥村弁護士への送信メールも根拠に引かれています)及び一定限度の信用性を認めた上で(被告人の「著作物の違法コピーをインターネット上に蔓延させようとする積極的な意図」は否定されており、その限度で信用性を否定)、

被告人は、Winnyが一般の人に広がることを重視し、ファイル共有ソフトが、インターネット上において、著作権を侵害する態様で広く利用されている現状をインターネットや雑誌等を介して十分認識しながらこれを認容し、そうした利用が広がることで既存のビジネスモデルとは異なるビジネスモデルが生まれることを期待しつつ、ファイル共有ソフトであるWinnyを開発、公開しており、これを公然と行えることでもないとの意識も有していたと認められる

と結論づけ、被告人の有罪を導いています。
「十分認識しながらこれを認容」と認定していますが、これだけでは、通常の故意と変わりません。「既存のビジネスモデルとは異なるビジネスモデルが生まれることを期待しつつ」というところに、そういった通常の故意レベルを超えた、一種の「意欲」のようなものを認定しているようにも読めますが、上記の通り、「著作物の違法コピーをインターネット上に蔓延させようとする積極的な意図」は明確に否定していますから、どういうレベルでの主観的態様があるから有罪である、という、一般化できる基準のようなものをそこに見出すことは極めて困難と言うしかありません。「公然と行えることでもないとの意識」とある点は、違法性の意識を問題としているようにも見えますが、違法性の意識を現実に有していること自体は犯罪の成否とは無関係である、とするのが一貫した判例の立場であり、公然と行えることでもないとの意識というものが、この種行為を有罪とする上で重要、とも考えにくく、この部分の趣旨は何ともよくわかりません。
判決の論理を、判決の立場に立ちつつ敢えてわかりやすく補充するとすれば、上記のような主観的態様は、価値中立的でさまざまな分野に応用可能、有意義なソフトの開発、公開であっても、著作権を侵害する態様で広く利用されている現状も踏まえれば、社会的相当性を逸脱しており、違法である、ということになるでしょう。
敢えて、ここから基準的なものを強引に導こうとすれば、開発、提供する対象が価値中立的なものであることを前提に、「その技術の社会における現実の利用状況」と行為者の「主観的態様」の相関関係により違法性が決まる、ということになりそうです。
しかし、これでは、前者の具体的状況(換言すれば違法な利用状況の程度)と、後者の有無、程度(違法な利用状況をどの程度認識、認容しているか)により、無限の組み合わせが考えられ、どこで有罪、無罪が分かれるのか、その分水嶺を明確化することは極めて困難(ほとんど不可能)だと思います。
例えば、ソフトウェアの悪用の度合いが20パーセントから30パーセントといった現状があり(ウイニーよりはかなり低い)、開発、提供者が困ったものだと思いつつ特段の措置を講じず(そういった現状を認識、認容し)提供を続けた場合はどうか、悪用の度合いが50パーセントに達した現状で、悪用防止措置を講じつつ提供を続けたがその措置が極めて不十分であった場合(提供者もそれを認識、認容)はどうか、といった、いろいろな状況を想定すると、何が有罪で何が無罪なのか、考えれば考えるほどわからなくなってきます。
そもそも、京都地裁判決のように現実の利用状況に対する認識、認容や主観的態様を特に問題とする方法論を採れば、そういったことに無頓着で気に留めることもなく(見たり聞いたりしないようにして)開発、提供を続ければ無罪なのか、ということにもなりかねず、刑事政策的にも問題なしとしないでしょう(一種の「主観主義刑法学」に通じるものも感じられ、罰すべきは行為ではなく行為に徴表した行為者の危険性である、という考え方も垣間見えるような気もします)。
そこにこそ、私が、既に

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061213#1165973549
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061216#1166236421

と指摘しているような、この判決の本質的かつ致命的な問題点があると思います。
ただ、判決要旨の論理を手掛かりに、どのような点に留意すれば、この種行為について違法視されることを回避できるか(回避しきれるかどうかはともかく)、について、やや手掛かりのようなものも見えてきたような気もします(おぼろげなものにしか過ぎませんが)。それについては、次回に述べたいと思います。

(続く)