検事に必要なこと

新任判事補のブログで

http://plaza.rakuten.co.jp/droppy/diary/200412220000/

と述べられており、その中で、

生半可な仕事ではないですが,取調べでがなりたてて、机をたたいて,自白を採るような人間には,秋霜烈日と言われる検察官はできないでしょう。

とあった。
このブログでは、検事の取り調べの在り方を中心に述べられているが、確かに、現在の検事の仕事の中で、取り調べの重要性は極めて大きい。供述証拠の重要性は言うまでもないし、「自白」がとれるかとれないかで、起訴の可否が決まってしまう事件も少なくない。難しい事件になればなるほど、取り調べでいかに真実の供述を引き出せるかが問われることになる。
私は、11年余りでドロップアウトしてしまったので、とても偉そうなことは言えないが、取り調べの方法とか、在り方には、常に関心を持っており、検事の体験談とか、著名事件で否認していた被疑者が自白した経緯に関する文献などは、できるだけ読むようにしていた。
上記のような、「がなる、机をたたく」といった、高圧的な取り調べは、ありがちであるが、こういう取り調べを続けているようでは、捜査機関が思い描いているストーリーを被疑者に「押しつけた」自白調書はとれても、被疑者が供述してはじめて真相がわかる、といった、深みのある自白を得るのは困難である。
私の経験でも、やはり、被疑者が真の意味で決意して本当のことを話そう、という気持ちになるためには、取調官の事件に対する的確な見方を基にした、誠意に基づく説得力、といったものが必要ではないかと思う。
自白を得て上司にほめられたいとか、自分の手柄にしたい、といった卑しい気持ちが入っているようでは、相手にも敏感に伝わるし、駄目だと思う。そういった私心は捨て去り、虚心に真相を解明しようとする熱意が伝わり、心が通じたときに、真の意味の自白は生まれると強く感じる。
確かに、取り調べには異性を口説く(男性が女性を口説くだけでなく女性が男性を口説く場合もあると思うので「異性」とした)のと似た面がある。しかし、決定的に違うのは、「私心」の有無だと思う。現職検事の頃の私は、自白を獲得するほうの検事だったと思うが、後から振り返ってみて、自分でも納得できた取り調べというものは、自分自身、私心を捨て去り、真相解明の熱意が相手にうまく伝わって、心と心が通じ合うようなものだったと思う。そういう経緯で自白した被疑者については、やった犯罪は決して許せるものではないが、それなりに改心して自白をした、ということは、高く評価すべきだと今でも思う。
ただ、そういった、一種のカウンセリング方式で真相を解明して行く、という手法は、もはや、過去のものになりつつある。こういった手法と、取り調べの可視化というものは、なかなか両立しない面があるし、何より、多大な時間と労力がかかり、捜査経済という点でも非常に効率が良くない。
私自身は、取り調べは国際的なレベルにまで可視化する一方で、刑事免責、司法取引といった制度も大胆に導入し、供述証拠確保の適正さを担保しつつ、捜査機関の証拠収集に支障を来さないようにすべきではないかと考えている。