気長に腰を据えて

なかなかおもしろい新任判事補のブログの中で

http://plaza.rakuten.co.jp/droppy/diary/200410300000/

とあり、どうも、おもしろくないことがあったようである。
私は、裁判所で勤務した経験はないので、内部のことはよくわからないが、高裁の刑事部の、性格の悪い裁判長とかを見ていると、ああいう上司がいたら、毎日うっとうしいだろうな、と思うし、検察庁の内部も、ひどいものなので、何があったかは、大体想像がつく。
裁判官も検察官も、所詮は「役人」であるし、キャリアシステムの中で世間が狭いし、「面従腹背」の人々に、表面上はちやほやされるので、次第に、思い上がった、独善的な人間になりやすい。そういうところが、時々、外部に暴露されるような形になって、手厳しく批判されたりすることもあるが、表面上は反省しているように見せかけても、真摯な反省をすることはないので、根本的な部分はいつまでたっても改善されない。外部から中途で人が入ってくるということも(弁護士任官)、極めてごく一部の例外を除いて無く、愛想をつかした人は辞めて行くだけなので、内向きの意識はいつまでたっても変わらず、進歩もない。
しかし、日本には、そういった裁判所や検察庁しかないので、そんなものはなくなれば良いと言えば、裁判所も検察庁も存在しなくなってしまうし、愛想をつかした人が辞めて行くだけの現状よりも、まともな人がいくらかでも踏みとどまって頑張るというほうが、国民のためには望ましいとも言える。
世の中、いろいろな人がいるし、馬鹿な人、愚かな人、尊大な人、表裏のある人など、様々であるが、気長に腰を据えて、いろいろな人間が観察できていいな、くらいの気持ちで過ごすのが良いのではないかと思う。
地位にあぐらをかいているような人間(検察庁などは、ハンコを押す以外に能がない人間が掃いて捨てるほどいる)は、その地位を失えば(定年もあるし、必ず失うことになる)、単なる愚かな老人にしか過ぎなくなる。そういった人間が、そうなる日を、密かに楽しみにしながら、じっと観察するのも、それはそれでおもしろいものである。