知財高裁も文化庁見解否定 「シェーン」の著作権消滅

http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007032901000707.html

2004年1月施行の改正著作権法で、著作権保護期間が50年から70年に延長されたことに伴い、改正直前の03年末に保護期限を迎えた映画の著作権も延長されたかが争われた。塚原裁判長は「日にち単位で考えるべきで、03年12月31日で存続期間は満了した」と、1審判決と同様に判断した。

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061011#1160497239
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20061007#1160175050
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060712#1152707127
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060525#1148534840

でコメントしたことがありますが、この問題についての裁判所の判断は、ほぼ確定したと言えるでしょう。
文化庁による「文化」的な解釈が、知財高裁でも否定された、ということになります。

美術館巡りで六本木に回遊性を、東京ミッドタウン30日開業

http://www.nikkei.co.jp/news/retto/20070328c3b2804z28.html

本日、グランドオープンですね。1月末から、2か月ほど、内部で仕事をしていましたが、店舗がほとんど開いていなくて(徐々に開店してきていましたが)、その魅力を十分味わうことはできませんでした。退職に伴い、当面、ミッドタウンに行くこともないと思いますが、人出も減って落ち着いたら、ゆっくりと見に行きたいと思っています。

ヤフーが検索に「ブログフィルタ」検索結果にブログが出ると「がっかり」が2割以上

http://www.atmarkit.co.jp/news/200703/28/yahoo.html

ヤフーが2006年9月に行った調査では、「検索していてがっかりしたこと」の質問に対して「個人のホームページやブログや掲示板の会話などが検索結果に出た」が2割以上を占め、検索に対するユーザーの要望が明らかになった。

それだけ、下らない、読むに値しないブログが多い、ということでしょうね。
ブログで集客、アフィリエイトなどと騒ぐ前に、ブログで何ができるか、何のためにブログを続けるか、といったことを冷静に考えてみる必要があるでしょう。

「シニアマーケットに学ぶ資産運用アドバイス」

編著者の鬼崎さんは、私の修道中学・高校時代の後輩で、同じ時期に野球部に在籍していたことがありました。私の事務所があるビルの中に、ハートフォード生命が入っていて、20年以上振りにお会いする機会があり、上記の本をいただきました。
金融商品販売担当者のための実践ガイド」ということで、少し読んでみましたが、「団塊の世代」がこれを読むことにより、平成電電とか近未来通信などのような魑魅魍魎に引っかかって痛手を被ることなく、堅実に資産運用ができるのではないかと思いました。
残念ながら、私には運用するだけの資産がありませんが、将来を見越し、この本を読んで勉強します。

<アパート全焼火災>33歳被告の放火認めず無罪 大阪地裁

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070330-00000072-mai-soci

杉田宗久裁判長は事前に「強圧的な取り調べがあった」として自白調書の証拠採用を却下しており、この日も「自白に頼り、物証を軽視した、あしき捜査の典型」と厳しく非難した。

自白調書が証拠から排除されたため、検察が状況証拠で放火以外の原因を完全に否定できるかが争点になった。杉田裁判長は「(捜査が自白頼りだったため)ショートの痕跡がある延長コードなど重要な証拠品が押収、保全されず廃棄された」と指摘。弁護側が指摘するホットプレートや延長コードのショートによる出火の可能性について「完全に否定されたとは言えない」と判断した。

この種の事件における証拠構造を、自白偏重、自白依存にせず、裏付けをとり物証によっても支えるものにする(ただ、放火事件自体、どうしても自白中心に立証せざるを得ない面がありますが)、というのは、第1次的捜査機関である警察の責任である以上に、公判を熟知している(はずの)検察官に課せられた使命でしょう。
以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060126#1138235415

でも触れたことがありますが、昔は「大阪方式」というものがあって(私も話でしか聞いたことはありませんが)、身柄事件の事件送致があると、勾留がついた後、頭の送致書だけ検察庁に残して他の記録は警察が持って帰ってしまい、7日目くらいまでは専ら警察が捜査し、残りの3日くらいで検察庁が取り調べ等を行い(その間は検察庁に記録がある)、勾留延長があると、再度、警察が記録を持ち帰って捜査して、という手順で進められていた時代があります(話だけでしか知らないので、この通りだったどうか、いつまでそのような慣行が残っていたかは、よくわからない面があります)。
私は、徳島地検で勤務したことがあるだけで、大阪地検やその周辺庁で勤務したことがありませんが、上記のニュースに接し、昔の大阪方式が、悪い形で尾を引いて影響が残っているのかも、という気がしました。これが私の杞憂であることを祈ります。
いずれにしても、捜査を進める上では、今後の参考になる、参考にすべき判決と言えるでしょう。

本人確認の困難性

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070329#1175134157

に関連して、若干、補足を。
本ブログでも、時々、「匿名性」に関してコメントすることがありますが、日本の現状では、取引等の場において、実在する人を厳密に本人と確認することは極めて困難というのが実態です。
まず、最近の新聞記事でも取り上げられているのを読みましたが、写真付きの身分証明書(フォトID)を、皆が皆、持っているわけではありません。公安委員会発行の運転免許証が、社会的に認知された典型的なフォトIDだと思いますが、そういったフォトIDを持っていない人も少なくありません。写真のない証明書では本人が「確認」できたとは到底言えないでしょう。
また、フォトIDについても、残念ながら、いとも簡単に偽造できてしまうのが実態です。運転免許証だけでなく、パスポート、外国人登録証等々、お金さえ出せば、偽造できないものはない、というほど何でも偽造してくれる裏の偽造屋が存在し、時々、警察による摘発を受けることはありますが、根絶には程遠く、そういった偽造屋が作った偽造の書類(フォトIDを含む)を使って、日本全国で、次々と預金通帳、携帯電話等々が不正に取得されています。現場の警察官自身が、「運転免許証で本人確認なんてできませんよ」(実際にそういう話も聞きました)と言っているくらいで、現在の日本は、真面目な人ほど本人確認による負担を被り、悪い人間ほど易々と切り抜けてしまっている、と言っても過言ではありません。
担当者と対面した上で本人確認を行う、という場合であっても、この惨状ですから、インターネットを利用するにあたり非対面で本人確認を行う、という場合、さらに低レベルのものになってしまう、というのは自明の理です。
警察は、犯罪を防止し起きた犯罪については犯人を検挙するのが仕事ですから、日本が警察国家になろうが監視国家になろうが、犯罪を防止し証拠を確保するためには手段を選ばない、やりすぎるくらいやって間違ったら富山県警や鹿児島県警のように謝って終わりにすれば良い、ということになりがちですが、警察や警察御用達の学者等の言うがままで、上記のような「尻抜け」状態であるにもかかわらず、真面目な人々だけ馬鹿を見て、警察等に情報が集積しプライバシーがどんどんなくなってしまうような方向で匿名性の排除が進んで良いのか?という「健全な」問題意識は必要でしょう。
そもそも、監視されている、と思えば、違法、不当なことはしていなくても(していないつもりでも)、人は萎縮しがちなものです。表現の自由に対する萎縮的効果、ということが、よく問題にされますが、何かを表現する場合、他人について立ち入ったことを書く場合、名誉やプライバシー等の侵害になるかならないか、といったぎりぎりのところに立つ場合もあり、常に警察等に監視されている、情報が筒抜けになる、ということになれば、良い方向と同じかそれ以上に、悪い方向での萎縮的効果が生じる恐れが出てきます。そういった社会が、日本国憲法下における望ましい社会なのか、ということも、真剣に考えておく必要があります。
犯罪防止や犯人検挙のために、各種の措置を講じることは必要であり、警察にそのための手段を与えることも必要ですが、過度にわたれば人権等との関係で問題が生じるのも事実であり、そういった緊張関係については、常に思いを致しつつ考えて行く必要があると思います。

追記:

要は、何かを徹底的にやるか、まったく何もやらないか、の間に、いろいろな選択肢がある、ということでしょうね。違法、不当な行為の防止につながるような措置(例えば本人確認)を、まったくやらないのは、やはり問題でしょう。一定の措置が講じられていることで、防止される行為はあるはずで、例え「イタチごっこ」ではあっても、必要なイタチごっこ、というものは確実に存在します(かつて、何代か前の警視庁ハイテク犯罪対策総合センター所長と面談していた際に、そういった趣旨の話が出て、なかなか良いことを言われるものだと思ったことがあります)。
しかし、やりすぎてしまう、徹底的過ぎてしまう、ということで、失われる利益が耐えられないほど大きかったり(プライバシー等)、かける手間暇や費用に対して得られる効果が乏しい、ということも、当然、起きてきます。そこまですべきではない、という判断を働かせるべき場合もあるでしょう。
学問の世界であれば、極論と極論を果てしなく戦わせるようなことをする意味もなくはないと思いますが、現実、実務の世界では、上記のような検討を、現実的かつ具体的に行うしかなく、どこに結論を求めるかは、最終的には国民が決断すべきことではないかと思います。