本人確認の困難性

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070329#1175134157

に関連して、若干、補足を。
本ブログでも、時々、「匿名性」に関してコメントすることがありますが、日本の現状では、取引等の場において、実在する人を厳密に本人と確認することは極めて困難というのが実態です。
まず、最近の新聞記事でも取り上げられているのを読みましたが、写真付きの身分証明書(フォトID)を、皆が皆、持っているわけではありません。公安委員会発行の運転免許証が、社会的に認知された典型的なフォトIDだと思いますが、そういったフォトIDを持っていない人も少なくありません。写真のない証明書では本人が「確認」できたとは到底言えないでしょう。
また、フォトIDについても、残念ながら、いとも簡単に偽造できてしまうのが実態です。運転免許証だけでなく、パスポート、外国人登録証等々、お金さえ出せば、偽造できないものはない、というほど何でも偽造してくれる裏の偽造屋が存在し、時々、警察による摘発を受けることはありますが、根絶には程遠く、そういった偽造屋が作った偽造の書類(フォトIDを含む)を使って、日本全国で、次々と預金通帳、携帯電話等々が不正に取得されています。現場の警察官自身が、「運転免許証で本人確認なんてできませんよ」(実際にそういう話も聞きました)と言っているくらいで、現在の日本は、真面目な人ほど本人確認による負担を被り、悪い人間ほど易々と切り抜けてしまっている、と言っても過言ではありません。
担当者と対面した上で本人確認を行う、という場合であっても、この惨状ですから、インターネットを利用するにあたり非対面で本人確認を行う、という場合、さらに低レベルのものになってしまう、というのは自明の理です。
警察は、犯罪を防止し起きた犯罪については犯人を検挙するのが仕事ですから、日本が警察国家になろうが監視国家になろうが、犯罪を防止し証拠を確保するためには手段を選ばない、やりすぎるくらいやって間違ったら富山県警や鹿児島県警のように謝って終わりにすれば良い、ということになりがちですが、警察や警察御用達の学者等の言うがままで、上記のような「尻抜け」状態であるにもかかわらず、真面目な人々だけ馬鹿を見て、警察等に情報が集積しプライバシーがどんどんなくなってしまうような方向で匿名性の排除が進んで良いのか?という「健全な」問題意識は必要でしょう。
そもそも、監視されている、と思えば、違法、不当なことはしていなくても(していないつもりでも)、人は萎縮しがちなものです。表現の自由に対する萎縮的効果、ということが、よく問題にされますが、何かを表現する場合、他人について立ち入ったことを書く場合、名誉やプライバシー等の侵害になるかならないか、といったぎりぎりのところに立つ場合もあり、常に警察等に監視されている、情報が筒抜けになる、ということになれば、良い方向と同じかそれ以上に、悪い方向での萎縮的効果が生じる恐れが出てきます。そういった社会が、日本国憲法下における望ましい社会なのか、ということも、真剣に考えておく必要があります。
犯罪防止や犯人検挙のために、各種の措置を講じることは必要であり、警察にそのための手段を与えることも必要ですが、過度にわたれば人権等との関係で問題が生じるのも事実であり、そういった緊張関係については、常に思いを致しつつ考えて行く必要があると思います。

追記:

要は、何かを徹底的にやるか、まったく何もやらないか、の間に、いろいろな選択肢がある、ということでしょうね。違法、不当な行為の防止につながるような措置(例えば本人確認)を、まったくやらないのは、やはり問題でしょう。一定の措置が講じられていることで、防止される行為はあるはずで、例え「イタチごっこ」ではあっても、必要なイタチごっこ、というものは確実に存在します(かつて、何代か前の警視庁ハイテク犯罪対策総合センター所長と面談していた際に、そういった趣旨の話が出て、なかなか良いことを言われるものだと思ったことがあります)。
しかし、やりすぎてしまう、徹底的過ぎてしまう、ということで、失われる利益が耐えられないほど大きかったり(プライバシー等)、かける手間暇や費用に対して得られる効果が乏しい、ということも、当然、起きてきます。そこまですべきではない、という判断を働かせるべき場合もあるでしょう。
学問の世界であれば、極論と極論を果てしなく戦わせるようなことをする意味もなくはないと思いますが、現実、実務の世界では、上記のような検討を、現実的かつ具体的に行うしかなく、どこに結論を求めるかは、最終的には国民が決断すべきことではないかと思います。