大田司令官は1945年6月6日、米軍の猛攻下で県民の惨状を見過ごせないとして「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電。1週間後、将校らと命を絶った。司令部壕では約4千人が命を落としたとされている。
以前、沖縄へ行った際、この海軍壕を見学しましたし、
などの沖縄戦に関する書籍も読んだことがあります。
昭和20年4月当時の戦局は、日本の敗戦必至の状態で、沖縄戦は、日本側としては本土決戦の時間稼ぎのためのもので、在沖縄の日本軍将兵、沖縄県民はそのための捨石とされたものでした。そのような中で、沖縄県民への格別の配慮を求めた大田司令官の電文は、普及の歴史として語り伝えられていくことでしょう。
沖縄や県民について語るのであれば、まずは沖縄が歩んできた歴史を学ぶ必要があるでしょう。