http://digital.asahi.com/articles/ASG6J61J7G6JUTIL036.html
刑事訴訟法が専門の法学者。20歳で司法試験に合格し、34歳で母校の中央大法学部教授になった。
その原点は、10歳の時の体験だ。旧満州で生まれ、その地で終戦を迎えた。公務員だった父はシベリアに抑留され、母と2人の姉と帰国した。かつて父親が住んでいた浜松市は焼け野原となっていた。「日本を立て直す仕事をしたい」。このとき決心したと、後に妻蕗子さんに語っている。
確か、高名な刑法学者であった故・植松正教授の随想で読んだような記憶があるのですが、司法試験の口述委員として渥美先生を担当した際、ある質問に対してはA説で、別の質問に対しては今度はB説で、と鮮やかに切り替えて答えていて、実に頭脳明晰、優秀であったと述懐されていたことが思い出されます。今頃、天国で植松先生と渥美先生は語らっているのでしょうか。
戦前、戦中に生を受けた人々からは、上記のように、焼け跡に立ち日本再生を決意した、という思い出話がよく出ていたものでした。そういった人々が、日本のあちらこちらにいて、日本が誤った道に進むことを阻止する抑止力にもなっていた、それが日本の戦後であったような気がします。そういう人々が次々と鬼籍に入り、残された戦後生まれの我々に委ねられたものは大きいと感じるものがあります。
刑事司法が大きな変革の時を迎えつつある今、渥美先生は何を思いつつ逝去されたのでしょうか。ご冥福をお祈りします。