聚楽第の本丸石垣発見=秀吉が造営、破壊―京都

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121004-00000157-jij-soci

本丸は東西200メートル、南北に330メートルあったと推定され、見つかった石垣は深さ7メートルの堀の底に近い部分とみられる。周辺では金箔(きんぱく)が施された瓦片3個も見つかった。
秀吉は、おいの秀次に関白職とともに聚楽第を譲ったが、嫡男の秀頼が誕生すると秀次を切腹に追い込んだ。聚楽第も完全に破壊され、遺構はほとんど見つかっていなかった。

聚楽第は、安土桃山期を取り扱った書籍ではほぼ必ず登場し、豊臣秀吉が権勢を駆使して作っただけあって大規模、豪華絢爛なものであったと言われていますが、上記の記事にもあるように、豊臣秀吉事件の後に徹底的に破壊され、現在ではその上に様々な施設が存在しているため調査も断片的なものにとどまらざるを得ず、その全貌は今なお謎のままですね。
豊臣家の栄光と、秀次事件に見られるような暴虐、衰亡を象徴するもの、と言っても過言ではないでしょう。
付近で施設の建替等が行われる場合は、できるだけ調査を行い、少しずつでも、聚楽第の実態に迫ってほしい、という気がします。今後のさらなる調査に大いに期待しています。