「少ないのは弁護士の数ではなく国選の報酬」

http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/02/post_7bff.html

このエントリーで取り上げられている朝日の社説

http://www.asahi.com/paper/editorial20080203.html?ref=any#syasetu2

は、私も読みましたが、問題の本質を簡単に捉えすぎているのではないか、という印象を受けました。また、この問題を、国選弁護の報酬の低さ、だけで切ってしまうのもどうか、という気がします。
刑事事件の場合、捜査初期に否認していた被疑者が、その後、自白に転じ、公判でもそのまま認め、有罪判決を宣告される、ということはよく起きます。そのほとんどが、冤罪ではなく、実際に有罪である、ということを否定する人はほとんどないでしょう。問題は、そういった中に数は少なくても、問題があるケースが含まれている、ということです。
富山の冤罪事件も、おそらくそうだったのではないかと推測されますが、否認から自白に転じた被疑者、被告人に、弁護人が、実際はどうなのか、やったのか、と聞くと、あきらめ顔で、ええ、やりました、間違いないです、などと答えるのが普通です。冤罪の被疑者、被告人がいて、そのような被疑者、被告人に、そのような問いを発し、そういった答えが返ってきたので、それ以上問わなかった、ということを「手抜き」と批判するのは簡単です。では、「本当はやっていないのではないか」と、しつこく何度も繰り返して聞くべきだったのでしょうか。それをしなかったから手抜きだったのでしょうか。そのように考えると、この問題は、簡単には片付けられないものを含んでいることが徐々にわかってきます。
一旦、虚偽自白をしてしまうと、やってもいないのに、次々と「有罪」方向の証拠が作り上げられてしまう捜査の構造的問題、そのような絶望的な状況下で、やってもいない被疑者、被告人がますます絶望し、本当のことを言っても無駄だとあきらめ虚偽自白を維持してしまうこと、そういったことを見抜けない刑事弁護の低調さ、否認事件に対し冷淡で被告人や弁護人の主張に耳を傾ける姿勢が乏しい裁判所、等々を、大きな視野で見て行く必要があるでしょう。その中で、国選弁護報酬の低廉さ、といったことも問題とすべきであるように思います。
朝日新聞、その社説と言えば、それなりに影響力もあり、多くの人が読んでもいるはずで、それにしては底の浅い内容、という印象を受けたのは事実です。