ロースクールについて(雑感)

関わっていて、現行のロースクール制度で特に問題があると思うのは(もちろん、特定のロースクールとか学生のことではありません)、「適性がない、あるいは不十分である人はどうするか」について、何のビジョンもないことだと思います。
現行の司法試験は合格が非常に難しいと思いますが、最終合格というゴールにたどり着けなかった人が、「敗者」かというと、確かに、試験という、狭い土俵の中では敗者であっても、人生という広い土俵の中では、堂々たる勝者になったという人が大勢いるわけです。社会的地位だけで判断するわけではありませんが、司法試験に合格できなくても、政治家、官僚、実業家、等々として成功した人は多く、そういった人達が、もし司法試験に合格していたとして、政治家、官僚、実業家等々として築いた実績を、法律家として果たして築くことができたかというと、大きな疑問符がつくでしょう。
要するに、人には適性がありますし、特定の職業、特に、法曹のような仕事については、頭の善し悪しと適性は、別問題で、頭が良くても法曹には適性が必ずしも無く、他の途で大成すべき人が大勢いるということです。
従来の司法試験では、司法試験を「とりあえず目指してみる」人は大勢いましたが、徐々に、他の途へ方向転換して行きましたし、司法試験に合格しなかったことは、何ら恥ずかしいことではない(あまりにも難しいから)ので、方向転換しても、それほど劣等感を持つ必要もなかったと言えると思います(あくまで一般論ですが)。
私は早稲田大学法学部に入り、1年生から、大学が運営している法職課程教室に入りましたが、春先に、基本科目の最初の講義に行くと、800名くらい入る大教室が一杯になっており、司法試験を目指そうという人が、こんなにいるのかと、驚いた記憶があります。しかし、楽しい大学生活が展開される中で、講義に出席する人はどんどん減り、翌年の1月、2月になると、特に刑法の講義などは、十数名くらいしか出席者がいないという状態になっていました(中野次雄先生という、もう亡くなられましたが、大阪高裁長官まで務められた裁判官出身の方で、実務の話題も適度に盛り込まれた、非常に参考になる講義でした)。
私は、そういう状況の中で、私なりに粘り強くは勉強して、比較的早く司法試験に合格しましたが、上記のように、教室から消えていった人達が駄目な人間で、自分は勝者だ、などとは、まったく思っていません。
これに対して、ロースクールの場合、現在の状況では、入学者は司法試験に合格するという進路しか存在しないと言っても過言ではありません。いろいろな選抜試験を経て、晴れて合格、入学していても、司法試験に合格するだけの適性がないという人も、当然出てきます。しかし、相当な学費を支払い、かなりの労力を費やして勉強し、その結果、司法試験に最終的に不合格になった場合、その人は、一体どうすればよいのか?適性のなさに気づいて、ロースクールを中途退学するといっても、支払った学費は戻ってくることはなく、周囲からは、ロースクールドロップアウトした人という目で見られる可能性が高いでしょう。
新司法試験は、ロースクールを卒業すれば、かなりの比率で合格するという目で世間からは見られているので、合格できなかった人が、耐え難い屈辱感に苛まれる可能性もあります。
私は、このような点から見ても、従来の司法試験のほうを、より肯定的に捉えていますし、現在のロースクール制度は、あまりにも実態とかけ離れたバラ色の夢や幻想を振り撒き過ぎ、そのことだけでも学生を極度に動揺させて、学習意欲にすら悪影響を及ぼしており、近い将来の制度の破綻は避けられないだろうと考えています。