裁判員裁判:求刑、従来より軽めに さいたま地検

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090911k0000m040107000c.html

地検幹部よると、裁判員に、「検察対弁護側」の構図ではなく、治安維持など公益を守る立場である検察官の量刑意見として受け止めてもらうため、従来よりも被告に有利な点を考慮して求刑を決めると、結果的に従来より軽くなると言う。
さいたま地検は10日、さいたま地裁(大谷吉史裁判長)であった裁判員裁判の論告で、2件の強盗傷害罪に問われたフィリピン国籍の男(20)に対しても法定刑の下限の懲役6年を求刑した。地検幹部によると、従来なら同7〜8年を求刑した可能性があるという。8月の全国2例目の裁判員裁判でも殺人未遂罪に問われた男(35)に懲役6年を求刑(判決は同4年6月)したが、地検幹部は「以前なら懲役7年を求刑しただろう」と話す。

強盗致傷罪の法定刑の下限は懲役6年ですから、2件あれば、従来の求刑感覚であれば、下限に1年乃至2年プラス、判決は懲役6年程度、というところでしょうね。従来の求刑では、半分以下になると検察庁内部で控訴を検討するという基準を逆手にとって、検察官控訴を嫌がる裁判官の量刑判断を強引に重めに誘導するという観点で、敢えて重めに求刑するということも行われていましたが、裁判員相手では、その手は通用しないはずで、求刑の在り方というものも変わらざるを得ないのかもしれません。ただ、既に東京地裁で審理があった事件を見ていると、求刑は従来の基準に照らし重めにスライドしているように思われ、さいたま地検東京地検では、求刑に対する考え方が違うのではないか、という気もします。
裁判員が求刑というものを参考にできるように、求刑にいかなる意味を込めどのようにして決めるのかということについて、考え方を全国的に統一し、必要に応じ裁判員に対してわかりやすく説明するようにしないと、裁判員を混乱させてしまいかねないでしょう。同じ問題は、裁判員裁判で有効ではないかとささやかれている弁護人による求刑にも存在するはずです。

法科大学院―法曹が連帯し質向上を(9月12日・朝日新聞社説)

http://www.asahi.com/paper/editorial20090912.html?ref=any#Edit2

突っ込みどころがいろいろあって、既にあちらこちらで叩かれていますが、ちょっとコメントしておきます。

だが、市民に司法を利用しやすくするため法曹人口を増やすことは、裁判員制度や法テラスと並ぶ司法改革の3本柱だ。その中心が法科大学院である。合格者数を絞ることより、全体の質を高めることを考えねばならない。
弁護士会と裁判所、検察庁の法曹三者は、法科大学院教育の充実について、連帯して責任を持っていることを改めて認識してもらいたい。

その「3本柱」が、いずれも疑問を持たれている、という認識を持つ必要はないのでしょうか?司法試験に合格し司法修習を修了しても、勤務する事務所がない、仕事もないという弁護士が確実に増えているという現状を抜きに、「合格者を絞ることより」と力説しても、説得力はないでしょう。
根拠不明な連帯責任を強いる前に、そういった本質的、根本的な問題を直視しないと、間抜けな社説だと物笑いの種になるだけだと思います。
一旦、始めたことは間違っていてもやめられない、というのでは、「大東亜戦争を完遂しよう!」と叫んで国民を無益な戦争遂行へと追い込んでいった戦前の軍部や政府と何ら変わらないことになります。

旧司法試験のような一発勝負の勝者ではなく、法科大学院から司法修習へというプロセスによって、人間性豊かで思考力を持った法律家を育てる。それがこの制度の理念だ。一部で法科大学院が予備校化しているとも言われる。そうであれば本末転倒だ。
法科大学院司法研修所、法曹三者が学生の育成過程をきめ細かく分担し、法律家として独り立ちさせるまで責任を持たねばならない。

旧司法試験の合格者が「一発勝負の勝者」、新司法試験に合格する人材が「人間性豊かで思考力を持った法律家」という、このあまりにも単純な色分けを、なるほど、そうだなと思ってくれる人は、よほど頭の中が単純な人でしょうね。旧司法試験(私が受験した頃のそれ)でも、択一試験憲法民法、刑法の基礎知識を問い、その後の論文試験(私の頃は憲法民法、刑法、商法、訴訟法、法律選択、教養選択の7科目)で論述力や思考力等を問い、さらにその後の口述試験(当時は7科目すべて)で、口頭による方法で、その能力を見るということが行われ、最終的に、500名程度の最終合格者が出ていました。こういったプロセスに何も問題がなかったなどとは、もちろん言いませんが、「一発勝負の勝者」程度の者が、あの過酷な試験に最後まで勝ち残れたとは到底思えません。そもそも、択一試験が5月、論文試験が7月、口述試験が10月と、3回にわたり、それだけの期間をかけてやっていた試験を、よく「一発勝負」などと言えるものです。
旧司法試験の時代には、一般的な法学部教育が司法試験のレベルには到底達し得ない中、合格レベルに達するため、大学が設けた課外の組織(早稲田大学法学部の今はなき法職課程教室など)、受験団体(中央大学の真法会のような)、受験生による自主的な勉強会、予備校等が、相互に連携したり、あるいは競争しつつ、やる気、能力のある受験生の能力を押し上げていたように思います。朝日の社説は「一発勝負の勝者」などと馬鹿にしていますが、そういった環境に身を置き勉強することで、苦労しながら、合格のために必要な知識や思考力等を身につけていたものであったことは、経験した人であれば誰でも思い出せるはずです。
現在の法科大学院を中心とした制度が、かつてのそのような環境の域に達していると考えるのは、よほどおめでたい人でしょう。馬鹿高い金がかかり、実務を知らず実務法曹を生み出す力のない学者(その多くは学者としても2流、3流)が文部科学省の顔色をうかがいながら実務法曹そっちのけで浮世離れした教育に明け暮れ、そこに申し訳程度に実務法曹が関わっている(関わらされている)というのが、現在の実態でしょう。こういうことを続けていて、良質な法曹を生み出せるはずがありません。

経験豊かな法律家が、現実に法がどう運用されているかを伝える意味は大きい。大勢力である弁護士界から教育の場に転じる人がもっと出てほしい。

上記のような、馬鹿げた制度におつきあいしようという人は、その人が真面目で優秀な実務家、弁護士であればあるほどいないはずで(真面目で優秀であっても、様々なしがらみから仕方なく嫌々つきあっているという人はいるようですが)、空疎な理念を振りかざす前に、こういう制度であれば教育の場に転じてみようと思えるような制度作りが急務でしょうね。

最高裁判所は変わったか―一裁判官の自己検証

最高裁判所は変わったか―一裁判官の自己検証

最高裁判所は変わったか―一裁判官の自己検証

先日、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20090909#1252469090

とコメントした後、総論的な部分と、各論的な部分のうち刑事関係のところを中心に読んで、一応一通り読み終えました。

私の場合、刑事事件を扱うことが比較的多い弁護士なので、最高裁についての関心もそちらへ向いてしまうのですが、率直な感想としては、正面からの上告理由にはなっていない事実誤認、量刑不当といった問題点に、最高裁にはもっと正面から取り組んでほしいし、そのために法改正や人員増強が必要であれば、その権限がある人々が面倒がらずにやってほしいと思いました。民事事件であればお金で解決がつくことが多くても、刑事の場合は「身体」がかかっているだけに、誤りがあった場合の取り返しのつかなさが極めて大きい、ということに、もっと思いが致されなければならないでしょう。そのことは、冤罪が判明した足利事件を見るだけでも明らかです。現在のような、事務総局を核とした司法官僚の堅固な組織の上に最高裁判事が乗っかっている状態では、たまに良い判決が散発的に出る程度以上のことはできそうにありません
例えば、各高裁の上級裁判所として、各高裁単位でかつての大審院に相当する裁判所を設けて事実面での審理を充実させ、合憲・違憲の判断や法解釈の統一等の必要性があるもののみ最高裁へ移送してその判断を仰ぐ(最高裁はそういった判断に特化する)、といった制度改革も、今後、検討の余地があるのではないかと思いました。