一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及 53年宮内庁長官「拝謁記」

一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇、米軍基地で言及 53年宮内庁長官「拝謁記」 | 琉球新報

専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の「天皇メッセージと同じ路線だ」と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について「反省していたかは疑問だ」と述べた。

 昭和天皇は、国際協調主義の下で平和を強く希望していた一方で、冷徹、現実的な政治家としての一面も併せ持ち、戦時中も、陸海軍の作戦について様々にコメントしていたことが史実として明らかになっています。時には、そういう昭和天皇の言動を軍が忖度して作戦が暴走、迷走したこともあり、例えば、戦艦大和の沖縄特攻は、沖縄戦の敗色が濃厚になる中、昭和天皇の、もう海軍に船はないのか、という「お言葉」に恐懼した海軍が一か八かで決行したものでした(そういう作戦に従事させられた将兵が気の毒ですが)。

戦後も、首相、閣僚の内奏時に、「大元帥」的なコメントをすることもあり、昭和48年に、当時の増原防衛庁長官の内奏時、「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、よいところは取り入れてしっかりやってほしい」などと述べ、それを増原防衛庁長官が漏らしたことで問題化し辞任に追い込まれたこともあります。

昭和天皇の、そういった多面的なところを、今後、さらに史実として明らかにして、偏りのない真の昭和天皇像を客観的に明確にすることが必要だと思います。