平成7年8月に入って、何とか1週間程度の夏休みが取れる状態になり、やっと身体も休めて、また東京地検へ復帰したところ、命じられたのは、坂本弁護士一家殺害事件の捜査の応援であった。
今でこそ、人々の記憶の中で薄れつつあるが、この事件は、平成元年11月に発生し、弁護士一家が忽然と姿を消すという(実は殺害されていたのであるが)、前代未聞の事件で、日弁連も総力を挙げて発見、救出を目指し、全国で一大キャンペーンを繰り広げていたものであった。
既に報道もされているように、発生当初からオウム真理教によるものではないかという疑いがあり、一種の内部告発のような情報もあるなど、オウム真理教がかなり黒に近い灰色という状態にあったところ、一連の捜査の中で、教団関係者による犯行ということが徐々に明らかになり、強制捜査に至ったという経緯であった。捜査は、東京地検刑事部、警視庁刑事部が主導し、東京地検公安部所属の私は応援検事として投入された。8月下旬ころから捜査に加わり、9月初めに関係者が一斉逮捕されたと記憶している。
東京地検の捜査体制を記したチャート図を見ると、検事が30名くらい投入されていて、この事件に対する、検察庁としての並々ならぬ強い真相解明の意欲を感じたことが思い出される。
坂本弁護士一家殺害事件発生当時、オウム真理教は、TBSをはじめとするマスコミに対する攻勢を強めていて、それが、この事件発生へ至る背景、遠因になっていた面があった。私は、マスコミ関係者に対する取調べを命じられ、参考人として事情聴取を行ったり、マスコミの社屋へ出向いてそこで事情聴取を行ったりと、連日、忙しい日々を送っていた。
坂本弁護士一家の遺体は、山中のばらばらの場所に埋められていたのが発見されたが、痛ましく、気の毒な事件であったという印象が今でも強い。坂本弁護士も、その奥様、お子さんも、さぞや無念であったと思うし、あの事件がなければ、それぞれ充実した実りある人生を送っていたと思うと、やりきれない気が今でもしてならない。犯行状況について語る関係者の供述調書で、坂本弁護士の奥様が、殺害直前、子供だけは、お願い、と言っていたというくだりがあり、それを読んだ時のやりきれない気持が、今でも胸の奥に残っていて、オウム真理教についてニュース等で話題になると、そのことを思い出すことがある。
(続く)